2023年1月17日火曜日

原理主義から福音派へ

https://ameblo.jp/ameriyoko777/entry-12235159205.html
南北戦争後に現れ、20世紀半ばにピークに達した原理主義は、プロテスタントの多様性と寛容、社会の世俗化に反対する鬼子のような存在だと見られてきた。「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリーの第17 回目は、その原理主義についてである。WWⅡ後は福音派運動と呼ばれる。

アメリカの福音主義は、一方でカトリックに反対し、もう一方でユニタリアンのようなリベラルなキリスト教に反対する。聖書とキリストに基づこうというアメリカ特有の運動で原理主義の主張と同じである。アメリカの大半のプロテスタントがポストミレニアリズムなのに対し、原理主義はプレミレニアリズムである。この相違は、終末の前に訪れる千年王国と、イエス・キリストの再臨の後先の順番が違う。

ポストミレニアリズムは、福音が行き渡って人々が悪から逃れ、信仰を強めた千年王国を実現した後に、いよいよイエスが再臨すると考える。つまり、人間の力で地上が改善できるとする楽観論である。それに対し、プレミレニアリズムは、イエス・キリストが再臨した後に、ようやく地上の悪が克服されて、千年王国が実現する、と考える。人間の力で地上をよくすることは出来ない、人間にできるのは、霊感によって動かされ、回心することだけだとする。原理主義は、武力を用いないので平和的であるが、主流のプロテスタントの共通了解には収まらない。科学や女性運動などに反対し、現代社会のもやもやに言葉を与えている。原理主義は、今の時代の敬虔主義ということもできる。

1920年代、原理主義は戦闘的になり、その後落ち着いた。ノーザン・バプティストと長老派に多く、メソジストや国教会(エピスコパル)には少なかったのは組織がかっちりしていたからで、会衆派に少なかったのは、組織がほぼなかったからである。1925年、テネシー州のスコープス裁判(進化論裁判)では、一審で有罪、州最高裁では裁判自体が否定された。この裁判で、原理主義は、田舎の南部の反知性主義というイメージが定着する。しかし、いくつもの学校や教会がつくられ、出版事業やラジオ放送などで勢力を拡大、WWⅡ後、福音派と呼ばれるようになってから、ペンテコスタル(20世紀はじめに起こった霊的な再生の運動。ロスの集会で聴衆が聖霊を受け異言を語りだし、世界にも広かった。全世界で信徒数5億人:全キリスト教の25%)、サザン・バプティスト、無宗派の移民系の会衆の流れをくむ精神的な運動となった。原理主義の再生ではなく、もっと広く深くなった。

トランプ大統領は、この福音派の支持を受けた。福音派は、大学の神学教育、知的権威、教会の組織、牧師の決まりきった説教などをどうでもいいと思っている。巡回説教師こそ本物だという認識がある。トランプはこの巡回説教師の匂い(素性が怪しく、いかがわしく、人間的な弱さと悪さが透けて視える、しかし憎みきれない人懐こさがある。)がぷぷんする故に、惹かれたのだろうとは、著者の橋爪大三郎の見解。

ちなみに、スコープス裁判以後、進化論教育は論争の種だったが、1968年最高裁は進化論を教えることを禁じる法律の無効とした。アーカンソー州法、ルイジアナ、ペンシルバニアなどの関連法も違憲とされた。現在、アメリカの公立学校では、宗教教育は厳として禁じられている。

アメリカの学校では、「アメリカ合衆国の旗と、それが表す、神のもとひとつの国民であり、分けられず、すべての人々のための自由と正義の共和国とに大使て、私は忠誠を誓います。:I pledddge allegiance to the flag of the Unaited States of America and to the Republic for which it stands one Naition, under God,indivisible,with loberty and justice for all.」と宣誓する(画像参照)のだが、1954年の冷戦期、ソ連との区別のために「神の元:under God」が加えられたことについては、裁判が起こり、誓いは祈りではないという意見もあるが、今も議論が続いているという。

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