2015年3月6日金曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。2

アリー
中田考氏の「カリフ制再興」、実に面白い。中田氏は第1章・カリフとは何かー正統四代カリフとカリフ制の基礎で、まず基本的な事柄を論じ、次に第2章・イスラーム学とカリフー神学と法学の諸相として、これまでの神学・法学の両見地からカリフがいかに定義されてきたかを論じ、さらに第3章・カリフ制の歴史的変遷ー王権とカリフ制の並存として、詳しく歴史をひもといている。今日のエントリーは、この前半部で、私が強く印象を受けた正統カリフ時代の概観についてエントリーしたい。

ムハンマドの死去以降、正統カリフ時代が四代続くわけだが、事情はかなり複雑である。まず、アリーについて整理しておこう。アリーは幼少よりムハンマドの養子として育てられ、妻の次にイスラームを受け入れた男性で最初の信徒である。ムハンマドの従兄弟にあたり、また娘ファーティマの夫(つまり娘婿)でもある。大巡礼の帰りにムハンマドは、「私をマウラー(後見人)とする者はアリーがそのマウラーである。」と三度あるいは四度繰り返したと言われる。後のシーア派が、アリーこそがムハンマドの後継者だとする根拠である。

さて、このムハンマド死去の際、当時のメディナには、ムハンマドの高弟たち(メッカからの亡命者でアラビア半島の名門クライッシュ族)と、彼らを援助する者(アンサール)の人々がいた。アリーは葬儀の準備中で不在だった。ここで、イスラームの分裂を危惧するアブー・バクルが立ち上がる。彼はコーランの一節(三章144節)を読み上げる(当時は暗唱である)。これを聞いた同じ高弟のウマルは地に倒れ伏したと言われ、メディナの援助者たち、中でも有力者のサアド・ブン・ウバータが、アブー・バクルに忠誠誓約(バイヤ)を交わした。ゆえに、アブー・バクルが、ムハンマドの後継者(初代カリフ)となった。

アリーは自分の不在中に後継者となったアブー・バクルにバイヤを交わすことを拒否。アリーの妻で、ムハンマドの娘ファーティマも、アブーバクルに父の遺産相続(ハイバルの果樹園)を求めたがムハンマドの遺産は喜捨されることになっていたゆえに拒否される。娘はファーティマは、二度とアブー・バクルと口をきかなかったというが、その後すぐ死ぬ。その葬儀にもアブー・バクルの出席は拒否された。しかし、人心が離れていくのを感じたアリーは、アブー・バクルに和解を申し入れ、モスクで公衆を前にバイアを交した。

アブーバクルが2年後死去するが、臨終にあたりウマルを第2代カリフに指名する。ウマルは、ペルシャ人の奴隷の凶刃に倒れるが、臨終に際し、ウスマーン、アリー、ズバイル、タルハ、アブドアル=ラフマーン、サマドの6人の高弟を指名し協議によっての次のカリフ選出を遺言とした。アブドアル=ラフマーンは、最終的に、アリーとウスマーンに絞り、モスクに人を集め、まずアリーの手をとり「あなたは、アッラーの書とその預言者のスンナとアブー・バクルとウマルの行跡に則って統治することで私とバイアを交わしますか?」と尋ねた。アリーは「いいえ、私は自分自身の能力と裁量によって統治します。」と答えた。次にウスマーンに同じことを尋ねると「はい、そうします。」と答えたので、ウスマーンが第3代カリフに就任した。

ところが、ウスマーンがメディナの自宅を叛徒によって襲われ殺害される。で、アリーがついにメディナの信徒たちのバイアを受けて第4代カリフに就任する。高弟たちは、殺害者の処罰が行われなかったので、バイアを交わず、カリフ就任を認めなかった。メッカへの巡礼の途にあった、ムハンマドの未亡人アーイシャはアリーを許さず、高弟タルハ・ズバイルらの支持を取り付け、メッカでアリーに反旗を翻す。これがムスリム同士の最初の内乱(ファトナ)で、未亡人自らラクダに乗って戦ったので「ラクダの戦い」と呼ばれる。(結果はアリーが勝利し、未亡人だけは許され静かな余生を送ったという。)しかし、ウスマーンの親戚でシリア総督だったムアウィアも、ウスマーン殺害者の処罰を求めたが、アリーに拒否され叛乱を起こす。アリーは、離反したハワーリジュ派の刺客に暗殺され、長男のハサンがムアウィアーにカリフ位を禅譲、その後このカリフ位はムアウィアーの息子ヤズイードに世襲されていく。カリフ位は、忠誠誓約(バイヤ)を交わすことによるものだったが、世襲王朝へ変質していくわけだ。これが、ウマイヤ朝である。

およそ、高校の世界史で学ぶ範囲のイスラム史を理解していれば、この本のカリフ制の論議の深遠な世界に入ることは可能である。反対に、こういう基礎知識がなければ、理解が大変だろうと思う。この本で、かなりのイスラム史の知識が肉付けされたわけだ。まずはここまで…。

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