2015年3月20日金曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。5

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中田考「カリフ制再興」の書評、エントリーの最終回である。中田氏は、今最大の話題のイスラム国について、この本の中で何度か定義付けをしている。

イスラム国は、カリフ制樹立の義務を怠る大罪を犯しながらその有責性の自覚すらない堕落しきったウンマ(共同体)に対する試練、神の鞭としてこの世に送られたのである。(199P)

イスラム国はサラフィー(復古主義)・ジハード主義者によるシリアとイラクのエスニックなシーア派が権力を握る警察主義的警察国家との戦いという歴史的文脈に大きく規定され、戦争の中で自己組織化を遂げてきたのであり、グローバリゼーションした世界の中においてカリフ制の再興がいかなる方法論に基づくべきか、再興されたカリフ制がいかなる形態をとるべきか、についての理論的考察の産物ではない。その結果、イスラム国は、表面的にはイスラーム法を施行し始めているが、行政の実態は、戦時体制、治安維持を口実とした、イスラムとは真逆のバース党的な全体主義警察国家の手法に近い。(205P)

2014年にカリフ制を称して樹立されたイスラム国は、カリフ制であるよりも、サラフィー・ジハード主義のイスラム国家であり、カリフ制の理念を体現しているとはとても言い難い。しかし、イスラム国がカリフ制再興の義務を世界に知らしめた功績は大きい。イスラム国が今後、真のカリフ制に変容していくのか、それともカリフ制再興の先駆けとしての役目を終えて滅びるのかは、現時点では明らかではない。(229・30P)

…カリフ制再興を果たしたイスラム国の現在の姿は、中田氏にとって現在のところ評価しがたい存在である。つまり、完全にシンパとして支持しているわけではないが、おそらく日本人の中で(イスラム法学的に)最もよく理解している専門家であると私は思う。

…同時に中田氏は、イスラムの法学者として、欧米的な領域国民国家・資本主義といった勢力により、イスラムの本来の姿が失われていると強く主張している。

イスラムの法の支配を実現するカリフ制こそがリヴァイアサン(欧米的な領域国民国家)の支配から人類を解放し、人間の主体性を回復し、幻想の欲望を肥大させるマモン(銭神:欧米的資本主義)の虜になった人類の目を覚まさせて、等身大の人性に引き戻すことができるのである。(229P)

…ところで、中田氏の主張する本来のスンナ(スンニ)派イスラム法学は、極めてアナーキーである。この辺は、新刊新書(イスラーム 生と死と聖戦)のほうがわかりやすい。中田氏によれば、イスラム法(シャリーア)は、あくまで、ムスリムの心の中の問題であり、それだけで(政治も経済も)足りる。カリフは各人の心の中を監視したりしないし、政策を決めたり、教育を推進したりもしない。カリフの存在意義は、各ムスリムがカリフを後継者と認め、カリフの支配する地域(ウンマ)内を自由に移動できるようにするための存在であり、欧米的な国家観や権力構造とは全く異質のイスラム独特の概念である。

…この極めてアナーキーなカリフ制の世界の実現が可能なのか?それはまさに神への信仰の問題であると思われる。異教徒(神ではなく縁起によってこの世界が構成されていると信ずるブディスト)の私であるが、新刊新書とこの「カリフ制再興」を併読して、欧米の先進国構造的暴力からの解放を目指すイスラム側の理論としては十分理解できたのではないかと思う。

…だから、私は少なくともブログ上で、「イスラム国」に、(欧米をはじめとした先進国の影響下で)日本のメディアが一斉に名称変更した「過激派組織」という形容詞をこれからも使わないつもりだ。

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