2016年12月6日火曜日

IBTの話(57) 西洋哲学史講義

EJUが終わって、西洋哲学史の講義をしている。生徒のリクエストによるものである。EJUの範囲を教えていて、何度か西洋哲学史に関わるような話が出てきて、かなり興味を覚えたらしい。特に、ムスリムのマレー系の生徒は、自分たちの精神的基盤とは全く異なる次元の話なので、興味津々でありながら、その差異を強く感じているようだ。

今回の講義は、日本の大学に行って、一般教養で「哲学」や「倫理学」を受講する際に、知っておいたほうがよい知識というコンセプトで行っている。だから、殊更にワープした部分もある。たとえば、ベーコンの4つのイドラ論とか、経済で話したマルクス主義とか、ヘーゲルの弁証法もその時、唯物史観の基礎として教えたので割愛。ただし、デカルトの、方法的懐疑(第一証明)から神の存在証明(第二証明)、物体の存在証明(第三証明)は、一応抑えた。またカントの先天的認識形式、道徳形而上学などもきっちり抑えた。でないと、西洋哲学の幹にあたる部分がよくわからないからだ。

恐ろしく難解な日本語が登場する講義になるが、いつもどおり、楽しく笑わせながらやったので、理解するというより、「ああ、それ聞いたことがある。」程度には講じれたと思っている。

最も苦心したのが、華人の生徒はともかく、ムスリムの生徒に西洋哲学史を理解させることである。なぜ、近代哲学でロゴスと理性(コギト)の構築がなされたのか、という事の理解が、シャりーアによって、神の理想とする世界が明確に示されているムスリムには理解しがたいと私は思うからだ。これを説明するには、キリスト教の理解が絶対必要である。

ムスリムの彼らは当然、キリスト教を学んだことがない。よって、神の律法がイエスによって否定され、ムスリムのように神の理想とする世界の設計図が失われていることを理解させる必要がある。だから、神定法と人定法の概念は不可欠であると思う。こんな話をしたうえで、デカルトの二元論(コギトと物体しか存在しない近代的な世界)を教えると、なるほど、と膝を打ってもらえるのだ。

ところで、現代哲学では、「神は死んだ」のニーチェには、かなりの違和感を感じたらしい。しかし、キルケゴールやヤスパースには親近感が生まれたようである。なかなか面白い。考えてみれば、ムスリムの生徒に、哲学史を日本語で講ずるという経験は、かなり希有なものだと思う。やはりマレーシアに来てよかったと思うのだ。

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