2016年12月26日月曜日

マレー・ジレンマ (5)

http://maembong.blogspot.my/2011/10/maembongs-art-gallery-history-of.html
独立したマラヤ連邦は、①9人のスルタンが州の首長になり、②このスルタンの中から5年ごとに交代で国王を選び、③イスラム教を国教とし、④10年後にマレー語を公用語とし、⑤市民権におけるマレー人の優位とマレー人の特殊な地位を認め、⑥連邦下院の多数党が政権を担当する立憲君主国家となった。

スルタンの権力については、後のマハティール首相によって、州の立法権では行政側が優位に、また憲法改正が行われ免税特権が失われるなど、現在はイスラムの擁護者的な「権威」になっているが、独立時点では、マレーの伝統的な権威が維持されたといってよい。一方、市民権については、英領マラヤ連邦時の市民権条項を基本的に引き継ぎ、①マレー語を話し、②イスラムを信仰し、③マレーの慣習を守る「マレー人」は、自動的に市民とされたが、非マレー人については、マラヤに10年以上住み、マレー語か英語を話し、「よい性格」を持っている者に与えられるという制限がつけられていた。1955年の選挙では、この制限条項のために非マレー人の有権者は人口比より圧倒的に低くなっていた。これに加え、憲法153条では、公務員の採用はマレー人4・非マレー人1を採用するクウォーター制、教育の機会やライセンスの賦与にもマレー人優位の規定があった。

この背景には、①マレー人社会がスルタンを頂点にイスラムとマレー語で統一を守ってきたこと、②植民地下、中国系・インド系の流入があっても政治的な力を維持してきたこと、③独立に際し、UMNOのマレー人エリートが主導したこと、④彼らが植民地支配下の民族間分業によって、マレー人の経済的劣勢を改善したいと考えたこと、⑤MCA・MICの中国人・インド人エリートも既得権が失われない限り、マレー人優先政策を認めたこと、がある。

ラーマン初代首相は民族間の融和、副首相のラザクはマレー人の生活向上を重視しつつ、この2人のコンビネーションで、独立後のマラヤは進んでいく。英連邦、国連に加入したが、SEATOや非同盟諸国会議には加入しなかった。反共国家でありながら、独自の外交姿勢をとっていたわけだ。一方、イスラム色の強い「汎マラヤイスラム党」、民族間の平等を訴える社会民主主義的な政党が野党として存在する政治図式がすでに1959年の連邦下院議員選挙で生まれた。

ラーマンは、「長い間にわたって、マレー人はイギリス植民地支配の受益者といわれ、無知と自己満足の中で暮らしてきた。」と語った。天然ゴムとススは、イギリスを中心とする外国資本と華僑資本が握り、金融、保険、貿易、商工業、運輸も同じで、マレー人はコメを中心とする農業とゴム小農と漁業という一次産業の生活に閉じ込められていた。したがって、ラーマンは農業開発をまず行う。コメの二期作化や土地の貸与によるゴムやパームやしの植林、灌漑排水網など、農業生産性向上に一定の成果を上げることはできたが、当時のマラヤはモノカルチュア経済の国であり、まだまたマレーの経済的地位はすぐにはあがらない。プミプトラ政策の序曲といってよかった。

…マレー・ジレンマの根源的な問題について、マレーの人々も、華人もインド系の人々もよく認識していると私は思う。それは、イギリスの植民支配における「民族間分業」のなせる業である。
ところで、ラーマン首相の肖像を検索していたら、マレーシアの歴史を描いているWEBページにたどりついた。素晴らしい作品だ。http://maembong.blogspot.my/2011/10/maembongs-art-gallery-history-of.html

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