2016年12月29日木曜日

マレー・ジレンマ (7)

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いよいよ5月13日事件についてエントリーすることになった。ラーマン初代首相は、各民族の融和を第一義に考えた人であったようだが、マーレー語の国語化・英語公用語問題への批判や、左右の勢力である社会主義勢力・汎マラヤイスラム党の批判の中、板挟みとなって苦しんでいた。

そんな中、1969年5月10日連邦下院選挙が行われた。UMNOは59から51議席、MCAは27から13議席、MICは3から2議席となり、与党は計66議席。政権を失うほどの敗北ではなかったが、野党勢力は37議席を取りあたかも勝利したような気分となった。野党がクアラルンプールで「勝利の行進」を行うことが条件付きで認められ、5月13日行進が行われた。この行進の際、マレー人居住区で「マレー人は死んだ。」などと叫んだといわれる。これに対し、UMNO青年部のマレー人青年たちがUMNO勝利の行進を始め、夜に両者が衝突、多数の死傷者(死者196人/華人143人・マレー人127人・インド人13人、その他15人、負傷者は439人)を出す流血の惨事となる。

5月13日事件と呼ばれるこの「人種対立事件」は、ラーマン首相を一睡もさせなかった。非常事態宣言を宣言し、議会を停止、事件の処理に当たる。選挙後の新内閣では、MCAのメンバーが3人も含まれていた。

この内閣に反発したのが、後の第4代首相マハティールである。彼はこの下院議員選挙で、汎マラヤ・イスラム党の候補に負け、落選していた。彼は、ラーマンが民族融和を優先しすぎた故に選挙で敗北したとして、私信の形で辞任を求めた。その後、マハティールはUMNOを除名される。しかし、独立の父ラーマンに確実に世代交代の波が押し寄せていたのだった。それを悟ったラーマンは、自身の出身地ケダ州のスルタンが第五代国王に就任する日を引退の日と決め、この事件の収拾をはかった後、責任を取って、盟友のラザク副首相に首相の座を譲った。

ちなみに、政治活動以外でも、ラーマンは8000人を収容できるナショナル・モスク、私が先日訪れた国立博物館、国会ビルなどをレーク・ガーデンに建設した。日本とも友好的な関係を保ち、クアラルンプール郊外のペタリンジャヤ工業団地に日本の企業進出を推し進め、またケダ州プライに八幡製鉄の協力で製鉄所が建設された。戦時中の日本軍の残虐行為に対する補償として$2500万の交渉をまとめ、2隻の貨物船がマレーシアに無償供与された。この船はその後ペナンからメッカに向かう巡礼船として使われたという。ちなみに、ラーマンは「うなぎ」が好物だったらしい。

この5月13日事件について、白書が発表され、でラーマンは①世代間のギャップと憲法の曲解、②人種主義政党の挑発、③共産党や秘密結社による挑発、④マレー人の不安の4つを挙げた。マハティールは、これに「マレー・ジレンマ」を出版するのである。いよいよ、次回は表題についてのエントリーになる。

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