2016年12月26日月曜日

マレー・ジレンマ (4)

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現代アジアの肖像14「ラーマンとマハティール」(岩波書店/藤原宜之著/1996年2月5日発行)の備忘録。WWⅡ後から独立までを整理してエントリーしようと思う。

1945年9月。英国政府はスズとゴムという資源をもつマラヤを経済復興のためのドル箱故に再植民地化をはかろうとする。それが、「マラヤ連合」案である。これは、①シンガポールを除き、「海峡植民地」「マレー連邦州」「マレー非連邦州」を統合、②スルタンの権限をイスラムと慣習に関する範囲にとどめ、③英国王の下で英国人知事が行政を握り、④すべてのマラヤ人(マレー系だけでなく、華人・インド系も含む。)に平等な市民権を与える、というものだった。

これに対し、マレー系は強く反発、現在もその権力中枢を占めるUMNO(マレー人国民組織)が結成される。彼らの訴えは、①マラヤの独立と主権の擁護、②イスラム、マレー語、マレー人の慣習、スルタンの権威、マレー人の特権の擁護、③議会制民主主義の擁護、④各民族間の善意と調和による国民統一の実現、⑤国連憲章の擁護で、スルタンの下で統合されたマレー人のプミプトラとしての優位を守るためのものだった。

この反対運動の中、英国は委員会をつくり折衝に入るが、華人やインド系の代表は入っていなかった。そこで、華人は、AMCJA(全マラヤ統一行動会議)を結成、①シンガポールを含めた全マラヤの統一、②全マラヤを代表する選挙によって選ばれた中央議会の設立、③マラヤを祖国とするすべての人々への平等な参政権の賦与、④スルタンは主権者であるが、民衆の助言、忠告を受け入れること、⑤イスラムおよびマレー人固有の慣習はマレー人の手に委ねられること、⑥マレー人の社会的地位の向上のための特別の配慮を要することなどを決め、活動を始める。

1948年12月。「マラヤ連合」案に代わる「マラヤ連邦」案がまとまり、スルタンと英国政府が調印した。①スルタンを各州の首長として地位を認め、②マレー人のための教育を強化し、③マレー人の特殊な地位を守り、④マレー人のイスラムと慣習を守ること、となった。要するに、英国はプミプトラとしてのマレー人の地位を認め、非マレー人を引き続き移民の地位にとどめ、民族間の分裂を復活させたものといえる。

これに強く反発したのが、反英武力闘争を展開したマラヤ共産党である。これに対し英軍とマレー系警官は、共産党を支持者とみられたジャングルに住む不法居住者を「新しい村」として有刺鉄線で囲い込み、その支援を断ち切り、華人の上層階級も、華人=共産党と見られるのを恐れ、新しい保守政党を形成する。それが、MCA(馬華公会)で、①中国人の権利の擁護、②民族間の調和、③雇用機会の平等、④社会正義の確保、⑤中国語の使用と教育の保持を掲げた。現在もUMNOのパートナーとなっている。これより先(1946年8月)、インド系も①インド人の権利の擁護、②インド人の世論の結集、③民族間の善意と調和の確保を掲げて、MIC(マラヤ・インド人会議)が結成されていて、マレー人、華人、インド人社会のそれぞれのエスニックグループの利益を守るための保守的な政治集団、UMNO、MCA、MICを持つことになったのである。

ところで、UMNOでは、非マレー人の政治集団をIMNOに統合するべく、初代総裁のダト・オンが提案したが否決され、UMNOを離れた。後任に選ばれたのが、ケダ州スルタン一族の出身でケンブリッジに留学して弁護士の資格を持ち、行政官・群長として農民の生活を知るラーマンであった。その後、選挙を通じて、UMNO、MCAが連合を組んで勝利、これにMICも協力して、独立へ走り出すのである。各民族政党が連合するというカタチが、マラヤでは最も価値的であったようだ。

1956年、ラーマンは、4人のスルタン、MCAの代表らと共に独立交渉のためロンドンに向かう。約3週間にわたる交渉で、平和裏に1957年8月31日独立にこぎつける。

…AMCJA(華人の初の政党)の⑥マレー人の社会的地位の向上のための特別の配慮や、インド系のMICが掲げた③民族間の善意と調和の確保など、マイノリティの政党が、自民族の権利の擁護を主張しつつも、マレー系に配慮する、微妙なスタンスが極めて印象的であった。

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