2014年5月14日水曜日

ボゴハラムVTRへの違和感

ナイジェリアのボゴ・ハラムの女子生徒拉致事件で、リーダーと称するが男の映像が何度も流れた。いわゆる「ドヤ顔」で、語る姿に怒りがこみ上げたのは私だけではあるまい。一方で、明らかに無理やりムスリムの姿をさせられた女子生徒たちの姿も流された。異様な印象を受ける。

私は、イスラムの人々と様々なところで接してきたが、決して違和感はない。礼拝を知らせるアザーンの響きも好きだ。イスラムの人々は親切な人が多いし、もちろん怖そうな人もいるが、それは日本だって同じだ。単純に、ボゴ・ハラムの映像を見て、全世界的にイスラム=悪と見られることには強く反対したい。

妻は、私同様、市井の宗教学の徒の一人である。ボソッと「イスラムの人々が、この暴挙をどう見ているのか、知りたいねえ。」とつぶやいた。私は、宗教学の徒であると同時に、アフリカを中心とした開発経済学を学んでいるので、うーんと唸る。全世界的な構造的暴力の中で、イスラムの人々が置かれている立場は、われわれ先進国日本に住む多神教的な風土に生きる立場とは、明らかに異なる。たしかに私も、イスラムの側からの声を聞いてみたいと思う。だが、欧米など先進国のキリスト教的風土に生きる人々とは、かなり違うものになっているような気がする。

ボゴ・ハラムのVTRを身ながら、そんなことを考えていたのだった。

2 件のコメント:

  1. Katabira no tsujiさん、
    >「イスラムの人々が、この暴挙をどう見ているのか、知りたいねえ。」
    僕もこのことはいつも気になっていて、時々、周囲に話を聞くのですが、「いい迷惑だ」といいます。最近暴れているグループのシャリーアの曲解を指摘する人も多いように思います。しかし、宗教(人類?)学でも、ゲルナーの振り子の原理が指摘されているように、ある「原理主義者」がいるのではなく、その時代や政治状況などが、ある日突然彼らを「原理主義者」にしてしまう、というのがリーズナブルな説明ではないのでしょうか。
    個人的には、原理主義的なるもの、あまり神学論争の末に成立するものではなくて、クルアーンを読む人の日常にあわせて行った結果として考えているのですが…いかがでしょう?

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    1. 荒熊さん、コメントありがとうございます。今読んでいる中田考氏の本でも、案外シャリーアへの理解が個人で異なることが書かれています。確かに時代のなせるわざなのでしょうねえ。多くのムスリムも迷惑だと考えていることに私は安心を覚えます。

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