2015年9月26日土曜日

司馬遼、山崎氏と明治天皇を語る

明治天皇、東京へ「行幸」の図 これが「遷都」ということになっている。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1775400.html
ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーをさらに続けたい。劇作家の山崎正和氏との明治天皇についての対談が面白かった。

江戸期のの皇室について、「天皇の教養が痩せてきた。」宝暦事件の話が出てくる。桃園天皇の時代に竹内式部という学者が国学と武道を天皇に教えて弾圧された事件である。こういうイデオロギー的な教育が入り込む余地があったこと自体、室町時代の頃から見れば考えられない。それくらい文化の流入がなかったし、幕末の孝明天皇は、公家さえ遠ざけられていた。近衛が、天皇が酢のような酒を飲んでいるのを偶然知って自分の領地の伊丹から剣菱を献上した。「酒というものはこんなにうまいものか。」と言われたという。それくらい閉鎖された環境に天皇はあったわけだ。だから、ペリー来航の際、絵師の書いた牛のような図を見て、ヒステリックに攘夷を叫ばれたらしい。

ところが、日本人には古来京都への潜在的求心性みたいなものがあって、源平争乱時代になってから、武士の氏性が「源平藤橘」のうちのどれかということになってしまう。ほとんどインチキなのだが、みんな(豊臣家以外は)天皇の血統に入ってしまう。なんとなく、日本人は京都が日本の持ち主であることを知っていたんではないか。江戸時代、日光例幣使という公家の勅使が毎年参詣に行っていたが、宿場で使った残り湯は病気に効くという信仰があった。公家の法主をいただく本願寺派の多い北陸などは、維新後の天皇巡幸で大いに盛り上がったという。

明治6年、政府は(世界に普遍的な)太陽暦を採用する。五節句を廃して同時に紀元節と天長節を制定する。本来天皇は太陰暦・五節句の精神に繋がるのだが、近代国家になりたいがための象徴的な事件となった。しかし、日本皇室の万世一系を証明する記念日も同時に制定することになった。

台湾出兵の際、在外公使館から横槍が入る。これに西郷従道は「おいどんは勅諭をもっている。」と言って出発してしまう。この台湾出兵を、太政官の参議でない(長州の木戸が、政治を軍事に先行させる鉄則を守ったらしい。)がゆえに事前に聞かされていなかった陸軍卿・山県有朋が大久保に食ってかかる。これに大久保は、「言うことをきかんとか何とかいうが、いざとなれば天皇の命令一下でまとまるんだ。」と言い放つ。つまり、それまで天皇は軍隊に作動していなかったのである。
西郷隆盛も、陸軍大将で近衛都督で参議、つまり天皇の直参のような立場ながら、征韓論で下野する際、天皇に挨拶もなく鹿児島に戻ってしまった。西郷にとって観念の上では天皇は君主だったが、生活体験上は、島津家が君主だった。これが明治6年。軍隊が天皇を無視しているといえる。これに先ほどの大久保の一言が明治7年。山縣は、この大久保の言を後に統帥権に活かすことになる。この辺が天皇制国家の成立といっていいような気がする、とのこと。

ところで、大久保が暗殺されなかったら、山縣のような精神のいじけた天皇制国家をつくるようなことはなかっただろう、というのが両者の共通意見。統帥権山縣が生きている間は自身が官僚の親玉であり、軍の最高責任者だったからいい意味で作動し得たが、彼が死ぬと抑えていた穴ボコからヘンなものが出てくて独立していった。大久保なら、もっと普遍的な国家システムをつくっただろうというわけだ。

最後に、明治天皇は、時代のムードをつくったという話。あの空の抜けるような青さに似た時代感覚は天皇の人柄と無縁のものではない。人間として面白い人だったと司馬遼は言う。明治天皇の好きな人(山岡鉄舟や西郷隆盛、乃木希典など)は男性的である。しかもなかなかのユーモリストであった。英国帰りの蜂須賀侯爵が宮中に伺候した時、天皇の現れる前に菊の御紋の入ったタバコを数本ポケットに失敬した。これに気づいた天皇は「さすがは蜂須賀小六の子孫じゃのう。」といわれたという。(太閤記に小六が泥棒として出てくる:そういう下世話な本まで読んでおられたというわけだ。)またなかなか思いやりもある天皇だった。演習で田原坂を訪れた際に、「もののふの攻め戦ひし田原坂 松も老木となりにけるかな。」と詠み、侍従に「乃木に渡しておけ」と言われたという。(乃木は軍旗を奪われたことを苦にしている、これで慰めてやれということ。)明治天皇は宮中の生まれではあるけれど、人間の世の中に通じていた。こういう雰囲気というものが時代を覆っていた、と。

…明治天皇は、(欧州の皇帝とは異なり)あまり自分で事を決める、ということはされなかった。唯一決めた事例は、日露戦争で多くの兵を殺してしまい、自刃しそうだった乃木を「学習院院長」にしたことだと言われている。乃木が天皇崩御に際して、殉死したのは、まさに「士は士を知る者のために死す。」であるわけだ。私は個人的にこういう義的な話は好きだ。

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