2015年9月3日木曜日

中国を社会類型をもとに考える。

http://www.47news.jp/CN/201509/CN2015090301001037.html
中国で戦勝70周年のパレードが行われた。中国共産党の強烈な権力が、大気汚染をぶっとばし透き通るような青空の下、行われたことをTVで批判的に報道しているのを見た。あるいは、日本の記者に対し、「小日本」という侮蔑のコトバが投げかけられたとも。まあ、日本への戦勝パレードだから、日本人としてはあまりいい気分ではないのは理解できるが、私は今こんなことを考えている。

以前、千葉大学の加藤隆先生の「武器としての社会類型論」についてエントリーした。(14年10月・12/13日付ブログ参照)中国の社会類型は、ヨーロッパとは正反対で、上部に支配者で富をもっているが、不自由な共同体が位置し、下部に自由な個人が設定されている。被支配層の自由な個人の中には富をもつものもあるし、様々な価値も生み出すとされている。

科挙の伝統を持ち、君子たることを当然視されている支配層。彼らは権力をもっているが、個人的自由はかなり制限されている。現在の中南海の指導層も、儒教を否定的に見ているとは言え、中国共産党のエリートとして同じ社会類型の中に共同体として存在していると私は思う。

中国の社会類型で最大の問題は、被支配層だ。13.57億という膨大な人口。日本から見れば、かなり人権的にも弾圧されているように見えるが、「爆買」などの現象に見られるように、彼らのエネルギーは尋常ではない。人口圧というコトバがあるが、日本のような奥ゆかしさを「徳」とすることなど、およそ考えられない。人口圧は、支配層を常に恐怖に陥れているように思える。

中国文化の代表である儒教は、仁という家族の親愛の情を基盤にしている。その仁を礼として儀礼化することで、この膨大な数の個人の自由を制限する道徳である、と考えることも可能だ。血縁関係を基盤とした最も判り易い”愛し合うためのテーゼ”が仁であり、それだけ自由な個人を結びつけ、制御することが難しかったといえるのではないだろうか。

私は、別に現中国の指導部を支持しているわけではない。ただ、極めて大変だろうなと思っているのだ。この膨大なエネルギーをもつ自由な個人を制御するのは至難である。まして、人民の豊かさを追い求めて、資本主義導入に大きく舵を切ってからは、いかに食べさせるかから、いかに豊かにするか、さらにより多くの人民を豊かにするか、と変化してきた。専制政治と言われようが、民主化弾圧と言われようが、反日を利用していると言われようが、人民元を操作していると言われようが、そういう批判にいちいち耳を傾けていれないほど支配層が背負った責任は重いだろうと思う。ひとつ間違えれば、内乱になりかねない。薄氷を踏む毎日ではないか。だが、彼らは不自由な共同体のエリートの道を選んだ。それだけの力があるのだろう。果てしない権力闘争の中で生き残った13億分の9(最上位の中央政治局常務委員の数)だ。

だから、彼らのとる政治手法は、極めてプラグマティックだ。成果が上がればそれが正義。これは、彼らの宿命的なスタンスだと思う。今回のパレードも、様々な効果を狙ってのことだろう。私はあくまで冷静に中国を見ていきたいと思っている。

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