2015年9月25日金曜日

司馬史観は「写生」の無さを嘆く

日比谷焼き討ち事件
http://rikukaigun.tuzikaze.com/meiji
-taisyou-syouwa-daiemaki..m29-m45.html
ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーを続けたい。司馬史観について、少しだけ記しておきたい。

かつて司馬遼は、昭和20年の初夏、関東平野を守るべく栃木の戦車隊にいた。ここに大本営の少佐参謀が来たそうだ。連隊の将校が、「我々は、水際で撃滅する任務をもっているが、東京から避難民が北上してくることが予想される。停滞して立ち往生してしまうと思われるが、どうすればよいか。」と聞いた。参謀はごく当たり前の表情で「轢き殺していく。」と答えた。この時、司馬遼は、「長州藩から引き継いだ遺伝因子」を思わざるを得なかったという。

その直後、厚木方面で演習というより実験があった。大本営は、この地域は深田、泥田で、戦車は走行不可能ということで無防備とすることに決めていた。南方方面からの報告では米軍の戦車はこのような土地でもやってくるというので、自軍の戦車で確認しようとしたのだ。土ダワラを敷いてみたら楽々通れた。鉄板を敷いたらこれも楽々。最後はそのまま泥田に入ったが通れた。なんという無計画さ。司馬遼は、この時も長州藩の遺伝因子を強く感じたという。

長州藩の無計画な暴走ぶり、目的のためには盲蛇になってしまうおそれるべき精神構造が長州藩の遺伝因子である。この暴走が奇跡的に成功した。(司馬遼は、この暴走の功罪を論じているのではなく、巨視的に取り上げているとことわっている。)その長州が明治陸軍をつくった。濃厚にその「やれば何とかなる」の体質を遺伝させたのだ。ところで大正・昭和の軍部の主導権を握っていた人には、東北人が多い。戊辰戦争で「賊軍」にされた藩から多くの軍人が出ている。彼らは西国諸藩出身者以上に「勤王屋」になり、陸軍の「長州的暴走性」の上に狂信性を加えた。「轢き殺して進め。」と言った参謀は、「天皇陛下のためだからやむをえない。」と付け加えたという。

…司馬史観は、個人的な経験にも基づいているわけだ。昨日エントリーした子規の「写生」とは、全く反対の「概念」で動く日本人。司馬史観には、この思いが貫かれている。

司馬遼は、ポーツマス講和条約後の「群衆」についてもこう述べている。江戸期の一揆は、飢えとか重税とか、形而下的なものであったが、明治38年の日比谷焼き討ち事件は国家的利己主義という多分に「観念的」なもので大興奮した。政府も新聞に真の(日露戦争のもしロシア陸軍が戦闘を再開したら負けてもおかしくない)事情をわずかしか渡さなかった。無知だったのであるが、真実を知ろうとするより大衆と激情を共有するほうが、錯覚に理性を委ねることのほうが甘美だったのである。司馬遼は、この理不尽で、滑稽で、憎むべき熱気の中から、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義がまるまるとした赤ん坊のように誕生したと考えている。この熱気は形を変えて教育の場の思想になった。つかのまの大正デモクラシーの時代ですら、江戸期の優れた思想家たち(荻生徂徠、三浦梅園らを司馬遼は挙げている。)については一語も語られることなく、むしろ南北朝時代の典型的な中世の情念が楠木正成などの名を借用することで柔らかい頭に注ぎ込まれた。大正期以後、熱気は左翼と右翼にわかれた。根は1つだった。(すなわち、「写生」ではなく「概念」から、感情的物語がつくられているということだと私は思う。)昭和前期を主導した軍人たちは、そういう教育を受けた擬似中世人たちで、先人である明治期の大山巌や児玉源太郎たちから見れば、似つかぬ古怪な存在になっていた。

…この司馬史観、かなりの批判があるが、私は批判があることを念頭においた上で、よく理解できるところである。

0 件のコメント:

コメントを投稿