2015年9月6日日曜日

「靖国戦後秘史」を読む。2

鎮魂社
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引き続き、「靖国戦後秘史」を読んでいる。今日は第2部。A級戦犯を合祀しなかった宮司についてエントリーしたい。このA級戦犯を合祀しなかった宮司とは、筑波藤麿氏のことである。

筑波氏は、皇族出身の初の宮司である。高松宮からの命で、宮司となった。その理由は、皇族出身(大学院在学中に臣籍降下し、筑波侯爵家を創設)ながら、(体調や気性のこともあって)軍人にならなかった人物であったことが大きい。学習院高等科から東大文学部国史科に進み、古代史を専攻。大学院終了後は自宅に史学研究部を置き、東大の研究者と共同研究を続けた。その理由は、例の平泉史学に支配されつつあったことにあるらしい。「ああいう過激な考えは自分に合わない。」と語ったという伝聞もある。軍人がこれまで靖国の宮司を続けてきた中、占領軍や世論に配慮してできるだけ軍と縁遠い人物として白羽の矢がたったようだ。

筑波氏は、皇族出身ながら、自己の信条として民主主義的な平和主義を信奉していた。生来の軍人嫌いであった。歴史家としての学識よって、たどり着いた思想でもあった。だから、以後32年にわたる宮司生活で、いかに靖国神社から軍事色を無くし、生き残りを図るかが彼の仕事となった。

http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx
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鎮魂社という施設がそのシンボルだ。「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰めるため、(中略)万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。」というもので、要するに全世界の戦没者を祀る施設なのである。あまり目立つところにあるわけではないらしい。しかも松平宮司によって、高さmもの鉄柵で取り巻き、非公開となったらしい。(左画像)今は、鉄柵はないようである。(上画像/私が靖国神社に行ったのは、はるか昔・小学2年の時なので、確かな話ではない。)

こういう人だから、厚生省に残っていた元軍人官僚がやいやい言って、A級戦犯の合祀を求めて、祭神名票が送付されてきてから、1年3ヶ月後に初の打ち合わせ会が行われ、総代会にかけることが決まっても、筑波宮司が亡くなるまでそのままにしていたということだ。

…昨日記した松平永芳氏も、特異な人物だが、前任の筑波藤麿氏も、まさにその対局にある特異な人物だったわけだ。

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