2015年9月5日土曜日

「靖国戦後秘史」を読む。

「靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男」(角川ソフィア文庫 毎日新聞「靖国」取材班/本年8月25日発行)を読んでいる。昨日買って、序と第一部の「A級戦犯を合祀した宮司」の部分を読み終えた。実は、月曜の日本史演習で、東京裁判から靖国問題へと進む予定で超タイムリーだったのだ。日本の現代史にとって、極めて重要な箇所だと私は思っている。

この「A級戦犯を合祀した宮司」とは、幕末の四賢公・松平春嶽の直系の孫松平永芳元宮司のことである。かねてより、この事実は知っていたが、この本で新たな発見があったので、教材研究も兼ねてエントリーしておきたい。

祖父・松平春嶽は、戊辰戦争の戦没藩士を祭る碑を福井の足羽山に作っていた。同じように長州など各地でも招魂社が設けられ、その東京招魂社が後に靖国神社になった。春嶽は早い時期から靖国に連なる戦没者慰霊を率先して実践していたわけだ。藩内で洋学を推進したことと同時に、本人は精神的には国学を尊ぶ立場だった。一方、父の慶芳(ながよし)は、昭和天皇側近で信頼が厚かった。だから、昭和天皇は、A級戦犯合祀の際、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、(中略)親の心子知らずと思っている。」(富田宮内庁長官メモ)という不快感を示されたのだ。

松平永芳は、父の「ノブレス・オブリージュ(高貴な身分に伴う責務)」という徳義に倣い、海軍機関学校に進み、軍人になる。41年当時昭和天皇の侍従武官だった醍醐忠重少将の娘を妻とする。この義父醍醐少将(後中将に昇進)は、ボルネオ司令官、呉潜水戦隊司令官を歴任。戦後、ボルネオで部隊が華僑を虐殺したという責任を問われB級戦犯として処刑されている。また呉では、人間魚雷回天の出撃を命じた人物である。(こう書くと悪人然というイメージになるが、高潔な武人であったようだ。)…B級戦犯の義父。(靖国に合祀されている。)…靖国にある遊就館の目玉展示は人間魚雷回天。

ちなみに松平永芳は、学習院幼稚園から小・中学校は暁星に進み、1年間浪人している。このとき、福井出身の平泉澄東大教授の家に預けられた。あの口舌の徒・平泉澄である。(14年2月19日付ブログ参照)この時に平泉皇国史観を叩き込まれている。これが、この本の最大の発見である。そう、大川周明がA級戦犯なら、なぜ彼こそが訴追されなかったのか不思議なくらいの人物だ。

海軍兵学校に合格できず、機関学校に入学する。戦後は保安隊に入隊するが選んだのは陸上自衛隊。これは、(当時反政府デモが頻発し)天皇を守るのに必要だということと、旧海軍が平泉史学を忌避していた関係があったのではないかと推測されている。しかし病気で出世コースから外れ、戦史室の史料係長に就任。陸上自衛隊に平泉史学を吹き込む目論見ははずれた。一等陸佐で退官後は福井の郷土歴史博物館長であった。人物としては、純粋で高潔であったと誰もが認める。だが、猪突猛進型の性格であった。

松平永芳は、祖父を尊敬し、祖父のように偉大でありたいという思い入れが強かったようだ。同時に父に対しては、戦後の国家を危うく(天皇側近として、戦後民主主義を推進)したと考えていたようだ。その中心にあるのは「平泉史学」である。これに前述のような学歴や職歴のコンプレックスが混ざり合っていると取材班は見る。

第2章では、皇族の筑波宮司の長期にわたり、(天皇がA級戦犯合祀に批判的であることは周知の事実だったので)それまでA級戦犯合祀を伸ばし続けていたのが、靖国の神職の諍いから、No2の権宮司が昇進する人事が覆り、結局松平永芳に白羽の矢がたつ。これをコーディネイトしたのは、保守派の元最高裁長官の石田和外(かずと)であるらしい。平泉史学の徒・松平永芳からすれば、自分が靖国神社から戦後民主主義の日本を改革してみせようと乗り込んだというわけだ。したがって、当時の社会情勢が松平永芳を押し出したと見るべきだと、取材班は見ている。

…私は、戦後のリベラルな民主主義社会こそが絶対善である、とまでは思わないが、少なくとも平泉史学が軍部を誤った方向に導き、多くの純粋な若者を死に追いやったと思っている。平泉澄は、その責任を全く取っていない。昭和天皇を窮地に追い込んだ陰の人物である、と思っている。昭和天皇が、合祀後、靖国に参拝されなくなったのは当然だと思われるのだ。

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