2015年9月13日日曜日

F・ルーズベルトの対日観

http://www.biography.com/people/franklin-d-roosevelt-9463381/videos/franklin-d-roosevelt-%E2%80%93-new-deal-critics-11527747960
「二十世紀と格闘した先人たち-1900年アジア・アメリカの興隆-」(寺島実郎/新潮文庫・本年9月1日発行)を読んでいる。以前、このヨーロッパ編を読んだが、今回はアジア・アメリカ編である。先日、マッカーサーの章で、記念館の位置の謎についてエントリーしたが、今日はF・ルーズベルトについてエントリーしたいと思う。その人の歩んだ人生の中での(他国との)関わり方ということが、いかに大きな影響を与えるかという視点で書かれているこの章は、実に興味深い。

F・ルーズベルトが尊敬した遠縁のS・ルーズベルトは、新渡戸稲造の「武士道」の愛読者で、日露戦争時の仲介者となった大統領(テディと愛称され、ぬいぐるみのモデルでもある。米西戦争に勝利し、パナマ運河を完成させ、アメリカのパワーを世界的なものに脱皮させた。)で親日派なのだが、F・ルーズベルトは日本には懐疑的な姿勢をもっていた。

F・ルーズベルト(以後FDR)は、一族の先祖が中国貿易で財をなしたこともあって、中国に好感をもっていたようだ。ハーバード時代、松方正義の六男・乙彦と出会い、日本が百年かけてアジアを解放するという話を聞き、警戒心を醸成したようだ。たかが若き日のホラ話ではないか、というわけだが、それくらい印象に残ったようだ。その後、海軍に進んだFDRはオレンジ計画に関与する。これは、20世紀初頭に想定した戦争シミュレーションである。黒はドイツ、金はフランス、紫はロシア、赤はイギリス、そしてオレンジが日本。色は各国のコードであったわけだ。その後、黒とオレンジだけが残り40年間も逐次改定され続けたものだ。この間、FDRは、ベルサイユ講和会議で、日本にさらに警戒心を強めている。しかし、彼が病魔に襲われた1920年代は好転している。療養中のFDRは「我々は日本を信用できるか」という雑誌論文を発表、ワシントン海軍軍縮条約を結んだ日本は、国際社会の責任ある参画者となりつつあり、米国はその疑念を解消されるべきと説いている。「わが外交政策について」という論文でも同様の対日観に言及している。幣原外交を大きく評価していたのである。しかし、「昭和」に入りFDRの日本への期待は、失望・怒り・憎悪へと急速に高まっていく。1937年10月には、シカゴで、(日本をナチ・ファシスト同様の伝染病として扱い、世界平和のために隔離すべしという)「隔離演説」を行っている。

もともと警戒していた。一時は見直し、その信頼回復を他者にも説いたが、完全に裏切られたという思い。フツーの人間関係でも最悪、関係修復は極めて難しい。

アメリカの指導者が、対日観においてこのような歴史的変遷を経ていることを、当時の幼稚な日本外交はほとんど掴んでいなかったのではないか、その甘さが今更ながらに確認できる。佐藤優の外交の話などを読んでいると、各個々の人物のもつ資質が、いかに重要な情報かがわかる。

…一気に話は小さくなるが、私の中の(こういう諸外国に対する価値観とでもいってよい)資質も、極めて個人的な自分史に起因するのだと思う。TVや映画で見たあこがれのアメリカだった少年時代の影響は大きい。文化大革命に理想を感じた学生時代もあった。だが、実際にその地に立ってみて感じることのほうが大きい。だからこそ、教え子諸君には、是非とも海外雄飛して欲しいと願うところだ。実存は本質に先立つのである。

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