2019年4月15日月曜日

児玉源太郎と私のこと。

今、何冊もの本を併読している。その中で、ふと「天辺の椅子」(古川薫著/文春文庫)の児玉源太郎についてエントリーしたくなった。日露戦争の陸戦での大功労者である。作者の古川薫氏は、山口県出身で郷土史家的な作家であるそうだ。もちろん、日本人会の無人古書コーナーのRM1本である。この小説、実に面白い。郷土史家ならではの、詳細な幼年時から青年期の話が、妙に私に響いたのである。

児玉源太郎は、長州閥に入るが、支藩徳山藩の出身である。下級武士ではないが、尊攘派と俗論派の争いに巻き込まれ、一家の長を殺され、あわや敵討ちをしなければならないような境遇に置かれる。しかし、戊辰戦争に下士官として参加、軍人生活の一歩を踏みだす。西南戦争では、熊本城を本拠とする鎮台の参謀となる。西南戦争の激戦地であるが、農民主体の国軍が、薩摩の猛攻撃に耐えたことが、西南戦争の勝利の分かれ目となった。その時の参謀である。彼は、司令の谷干城の、歴史ある熊本城は堅牢であるとの言に不信感を持つ。現実主義者で天性の軍略家である児玉にとって、熊本城の天守閣は無用の長物であった。薩摩軍の砲撃で天守閣が炎上でもしたら、農民主体の国軍の士気は崩れると判断したのだ。この小説では、児玉が本丸(天守閣)に放火する設定になっている。もちろん、備蓄米や重要書類はうまく運び出すのだが…。調べてみると、これは今でも謎のままらしい。たしかに児玉放火説は理に合っている。

さて、児玉源太郎が、長州の本藩ではなく支藩の出身であったことは、なんとなく、私の人生を今振り返ると、その悲哀のようなものに共感できる。この藩に対比できるものは、学歴社会の中で、出身大学のような気がした。国公立大学出身でも有名私立大学出身でもない私にはそういうバックはない。ただ、大阪市の高校教師になれたのは、大阪市立の高校出身者であったことで、府立に対抗して市立出身者を採用しようではないかという時の流れが味方したように思う。まあ、支藩出身・下士官候補生といった児玉の境遇に近いモノを感じるのだ。

児玉源太郎の家庭の不幸についても同様で、私の父親は年少より優秀だったが、貧困家庭だった故に職工学校しか学歴がない。長く町工場に勤めながら、国家資格で唯一学歴不問だった中小企業診断士の試験を突破した。もちろん独学で、経営学や工学を勉強した人だ。この資格、かなり人気の資格で難関である。しかし、だからこそ、中小企業診断士となってから、人一倍の野心が頭をもたげたのだろう。児玉の家人のように、背後から襲われるようなことはなかったが、結局薄幸の人生だったように思う。

なんだか、そんな共通点を感じていたのだった。私はもちろん、児玉源太郎のような大人物ではない。私の功と言えるものがあるとすれば、教え子とのたくさんの絆しかない。
功と呼ぶにふさわしかどうかはわからないが、私はある功を逃している。大阪市立の高校で、ユネスコスクールをつくるという夢である。私にとっては、極めて重要なライフワークだったが、夢破れたのだ。これが、ついに首相になれなかった児玉と、ほんの少しだけダブる。
そうだ、私はユネスコスクールをつくることを断念したのだ。で、私は途上国の為、少しでも役に立てればと考えてマレーシアに飛び込んだのだった。今日は、そんなことを考えていた。

小説はあまり読まない私が、この本にはまっているのは、そういう得体の知れない共感なのかもしれない。

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