2018年11月30日金曜日

物流の世界史を読む。(2)

https://yutakarlson.blogspot.com/
2009/12/blog-post_10.html
「5.なぜ中国は朝貢貿易により衰退したのか」について今日はエントリーしようと思う。
東南アジアのイス-ラーム化が進んだ14世紀後半から、中国の人口は2世紀間にわたって増大する。東南アジアの製品に対する需要は、明の永楽帝の大遠征後、非常に大きくなり、東南アジアの交易は発展する。しかし、永楽帝の後は中国の海運業は発展せず、主役にはなれなかった。

15世紀末になるとマラッカが重要拠点になる。インド洋からのダウ船と東南アジアのジャンク船の結節点となる。米・砂糖・魚・綿織物が、胡椒・樟脳・香辛料・白檀・中国製の磁器、絹、貴金属と交換された。東南アジアと北東アジアの結節点は琉球で、16世紀後半まで続き、その後衰退してしまう。だが、南洋日本人町の生成に繋がったらしい。

さて、中国は伝統的に唐代から朝貢貿易を行ってきた。民間貿易を行った時代もあったが、基本的に朝貢貿易のシステムを維持する。中国が世界で最も一番豊かな国であり、自国船を使うことによって得る利益など考える必要がないほど豊かな国だったといえる。

ところで、明代の一乗鞭法、清代の地丁銀制という税制は、銀を必要とする。16世紀にポトシ銀山が発見され、大量の銀がスペインによって中国に運ばれる。メキシコ西岸のアカプルコからフィリピン経由が最も重要で、マニラで絹と銀が交換された。ポルトガルも、インドのゴアからマカオへ銀を運んだ。さらに、スペイン経由でロンドン・アムステルダムに送られた銀が、英欄の東インド会社経由で送られた。中国が必要とした銀は、スペインの手中にあった、というか委ねた。これは信じがたいほどの物流システムの軽視である。朝貢貿易と銀の流通が、清代の中国の没落をまねくわけだ。

…なるほどである。この後中国はアヘン戦争で没落の一途をたどることになる。

0 件のコメント:

コメントを投稿