2018年11月27日火曜日

儒家のカインコンプレックス

韓国との問題は、あれからも好転する気配がない。と、いうか文政権が徴用工(と呼んでいる)問題に何ら公式発言をしていないし、反対に慰安婦の組織解散やソウル市長の日本製品使用忌避発言など新たな火種も出てきた。

私は、いくつかの記事や評論を読んで、これは大きく儒教的な問題ではないか?と考えるようになった。よく、中国・朝鮮半島・日本は東アジアの儒教圏だと1つに括られる。たしかに儒教はそれぞれの国の歴史に大きな影響を与えていると思うのだが、日本の儒教は微妙に違うと思うのである。

日本の儒教は、混合的・重層的な日本の思想全体の一部分でしかない、と私は思う。(記紀にあるような)日本古来の清き明き心を最深部に、それに仏教的な無常観や菩薩道、儒教的な仁義礼智信が積み重なっていると私は思っている。儒教というのは大きな影響があるけれど、日本の精神文化の全てではないわけだ。「水に流す」という古来からの社会的正義があり、無常観という時間的変化を当然のこととして受け入れる。この上に儒教は存在すると思うのだ。しかも、日本の儒教は、江戸時代は朱子学的の存在が大きかったが、幕末には陽明学の徒が力を持ち、倒幕に動いた。このことは、特に理気二元論的な朱子学の「礼」より、陽明学が重視する「仁と義」の実践こそが、日本では重視されることになった、と考えている。陽明学の影響は意外に大きいのではないか、と思うのだ。

日本の学校では、教師も児童生徒と一緒に掃除をしたりする。これは、中国や朝鮮半島では考えられないことである。長幼の礼に反するからである。かの中華人民共和国・建国直後、周恩来首相が人民と共に工事現場で汗を流したという逸話は有名である。これは極めて非儒教的(礼を無視した行動)で、新しい社会主義国家・中国の姿を示したわけだ。
私は、中国や朝鮮半島の儒教というのは、日本と異なり「礼」の位置が極めて高いと思っている。さて、韓国問題に戻すと、韓国の立場は、文化の伝播(特に儒教)の時系列的に、中国>朝鮮半島>日本である。つまり、日本は弟というか、長幼の礼の序列では下なのである。その日本が明治以降、現在にいたるまで、この礼の序列を崩したと見るわけだ。儒家のカイン・コンプレックスである。古代からの歴史的視点から見れば、長幼の「礼」を欠いているのは日本だと主張を理解することは不可能ではない。

ただ、日本では儒教的な思考の中心は「礼」ではなく、「仁」であり「義」である。相手がいやがるようなことはしてはならないし、喜ぶようなことをしていくのが日本の美学である。約束を守ることは命がけである。それが義であり、何より重視される。(小学生から時間を守ることをたたき込む。)これは日本の美学のひとつだろう。これらは、清き明き心と仏教とも融合したな概念である「武士道」に収斂されていると私は思う。そう、日本人にとって儒教的な発想とは、「礼」ではなく「仁」「義」なのだ。韓国にとっては、仁義ではなく礼。そう捉えると、また違った視点を持てるのではないだろうかと思う。

…とはいえ、同じ儒教圏だとはいえ、仁義を重視する日本は、今更の長幼の礼を主張されても、それがどーした?としか思えないよなあ、と思う次第。

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