2018年12月3日月曜日

物流の世界史を読む。(4)

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昨日に続き、「物流は世界史をどう変えたのか」のエントリー。
8.東インド会社は何をおこなったのか について。

英の東インド会社は1600年創設。蘭の東インド会社は1602年創設。ただし、蘭は東インド貿易に関わるいくつかの会社を英に対抗して統合したわけで、蘭の方が早いともいえる。東インドは、ヨーロッパから遠く、何か問題が生じた時にいちいち本国に問い合わせていたのでは間に合わない。そこで国家のようなモノをつくり、軍隊によって商業活動を保護し交易を促進させようとしたものである。つまり、独自に行動できたわけだ。1623年、蘭が英の商館員を殺害するという事件が起こり、以降、英は東インドから撤退し、インドを根拠地とし、オランダはインドネシアを本拠として棲み分けが行われる。

英欄の東インド会社では私的な貿易商人としての活動が認められていた。この私的な利益を求めて東インド会社の社員となる者も多く、先発のポルトガル人や、さらに陸路にもネットワークを持つアルメニア人とも共同した。蘭東インド会社は18世紀には約2万人の社員がいたが、貧困ゆえに活路を求めてやってきたドイツ人が増えていく。両東インド会社は、貿易の独占だけでなく領土経営にも手を出すが、蘭は英との競争に敗れ、18世紀末に解散する。英の東インド会社はそれより早く(1857年)解散するが、それは本国がインドの直接統治に乗り出したからである。これは、蒸気船と電信の発達で、東インド会社がなくとも直接統治が可能になったからである。

意外なことに、ポルトガル人は18世紀になっても、東インドの交易で力を持っていた。故国の国力は落ちたが、カトリックの反宗教改革という宗教活動は、日本での活動のようには、東インド地域では重視されず、現地の金貸しを利用しつつ、中国や日本との中間商人として生き延びていたらしい。

大航海時代を経験し、航海技術に長けたヨーロッパ船が、中国が海禁政策を取っていたが為に、東インドの交易の主力になっていく。いつしかイスラム船は後退していたわけだ。こうして香辛料を蘭が、インドの綿製品を英が担当してヨーロッパに主に運ぶようになる。軍事的に優位だったことが最大の原因ではないわけだ。

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