2011年7月9日土曜日

南スーダンの地ビール

南スーダン共和国が独立した。各紙の報道によれば、南北の宗教対立といった文字が並ぶ。アフリカにおける内乱の原因を、エスニックグループの違いや宗教の違いなどで、ステレオタイプ的に指摘することが多い。(6月16日付ブログ参照)だが、それが本当に事実かどうか、危うい場合も多いわけだ。
しかし、南スーダンの分離独立については、たしかに歴史的な経過から見ればわかりやすい。スーダンは、エジプト(北部)とイギリス(南部)の共同統治以来、イスラムでアラブ人(白人)の北部と、イギリス統治下でキリスト教を宣教した結果、在来の信仰とともに混ざり合った黒人の南部という色分けが顕著な地域だった。最大の問題は、スーダンが独立した際、北部のアラブ系が政府の実権を握り、シャリアーア(イスラム法)を南部にも強要したことだと言われている。
おそらく、今回私の世界史Bの授業を受けた生徒や、私が倫理を教えたOB・OGには容易に理解できるとことだと思うが、これはかなり厳しい話である。かなりの食のタブー(豚肉やウナギなど)や、禁酒・禁煙など、日常生活に大きな縛りが科せられる。社会的な規範もシャリーアで規定される。そういう律法的な縛りから、本来的に解き放たれてるキリスト教徒から見れば、相当の違和感であったはずだ。
本来、イスラムは、あまり自分たちの宗教を強要しなかった。剣かコーランか?ではなく、剣かコーランか税金(人頭税:ジズヤ)か?というのが、マホメット(ムハンマド)以来の聖戦(ジハード)におけるウンマ(共同体)拡大の図式である。その図式から見れば、独立当時のスーダンのイスラム共同体は、かなり過激であるといえる。国民国家化するという大義が強かったのだと私は推察するが、まあ、ウサマ=ビン=ラディンが一時身を寄せていたくらいだから、ある意味で、原理主義的な傾向が強かったのだろうと思われる。
イギリスは、当初ウガンダと南スーダンを合併させるつもりだったらしい。頷ける話である。この辺のボタンの掛け違いが、後に大きな悲劇になっていったわけだ。今更、誰が悪いなどという詮索をしても仕方がない。掛け違いのボタンははずされたのだ。

南スーダンでは、地ビールで大いに乾杯しているという。今回の画像はその地ビールのラベルである。南スーダンで牧畜が盛んなセブー。白い牛である。シャリーアで禁じられていた飲酒が自由になったという象徴でもある。

とはいえ問題は山積みである。特に、先日(6月29日付ブログ参照)紹介した、広域な干ばつ被害が心配だ。

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