2011年7月5日火曜日

タンザニアのマチンガの話 4

タンザニア・アルーシャのマーケットの画像
小川さやかさんの『都市を生き抜くための狡知ータンザニアの零細商人マチンガの民族誌』を読んで、実は私は考え込んでいる。小川さんは、荒熊さんと同じ、都市の文化人類学の研究者である。私が毎月通う京大の公開講座を行っているアジア・アフリカ地域研究科出身の方である。だから、その結論は、地域研究、あるいは文化人類学としての結論となる。それは当然なのだが、、”開発”をスタンスとした浅学の現場の高校教師としては、どうしてもこう考えてしまう。このマチンガたち、アフリカのインフォーマルセクターの問題を、今後どうしていけばいいのだろうか?

小川さんのこの『マチンガ』の研究をこんな短いブログで全部紹介などできない。この本では、先行研究の成果を確認することから始まって、第一部では、マリ・カウリ取引をミクロな商実践を事例として明らかにし、第二部ではタンザニアの歴史的な背景を明らかにしながらその変化を明らかにし、第三部では同じ空間を形成している他のアクターとの関係に位置づけて「隙間産業」としての立場を明らかにしている。見事なくらい論理的に積み重ねてある。再確認しておくが、素晴らしい研究書なのである。終章で、小川さんは、かの松田素二先生(私は、「都市を飼いならす」や「抵抗する都市」を読み、感銘しだことがある。)の「生活の論理」等を引き合いに出しながら『ウジャンジャ・エコノミー』として、この研究をまとめられている。

小川さんは、終章でこう述べられている。『本書が対象としてきたのは、アフリカの諸都市においてありふれた商行為である。市場商人、露天商、路上商人、行商人、定期市商人ー彼らは、公設・私設市場だけでなく、あらゆる路上に拡散し、アフリカ諸都市の活気ある商世界を形成している。この商世界は、先進諸国の人々が発展途上国のイメージとして、独特の匂いや喧騒とともに真っ先に思い浮かべるもののひとつではないだろうか。しかし、この商世界の内実が、それを構成している人々の日常的でミクロな商実践から十分に検討されることはあまりない。その理由は、この商世界がいとも簡単に貧困の深刻化や都市整備の遅れなどの途上国らしさにおいて了解されてしまう傾向にあるためである。』また『自由主義経済の論理に従えば、マチンガのような人々は容易に排除されるか、安価な労働力として組み込まれる。しかしマチンガは、不安定ながらも自律的な活動領域を認められ、それを維持しつづけている。』

そうである。全くそうなのである。しかし、私はあえて小川さんにさらに聞いてみたいと思うことがある。先行研究のところで、小川さんは、この商行為は「情の経済」と見るゴラン・ハイデンの見方を紹介し、この研究潮流から生まれるであろうマチンガ像は「縁者との関係」に埋め込まれた「道徳的」な人々となることを示し、後に他の先行研究とともに否定的な立場(というより新しい立場)を取っておられる。なぜなら、中間卸商と小売商の関係にはあまり地縁・血縁関係が見られないことが実証されているからでもあるが、私は、アフリカという風土が生んだ平準化や情の経済的なる社会構造が、やはりあるのではないか、としか思えないのである。
そして、それが、良いことなのか悪いことなのか。普通の経済学者なら、小川さんの指摘するように、悪しき社会構造と切って捨てるだろう。私は決して、そういう見方をしない。上記の「途上国らしさ」故ではない。こういう生き方があっていいのではないかという”理解する立場”からの意見なのである。先進国の効率的な構造こそが普遍である、という立場には反対したい。とはいえ、このままでいいのか、開発が進むのか、と問われると、うーんと考え込んでしまう。

今日、公園で喫煙していて、大阪空港に着陸する航空機を見ながら、ああやっぱり効率や合理的なスキルが、開発には必要なのかなー。などと考えていたのだった。

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