Y君が今日受験した大学の小論文のタイトルは「美術と鏡」だったそうだ。メールを受けて、私の脳裏に浮かんだ美術作品は、サルバドール・ダリのガラを描いた作品である。タイトルは…、すぐに思い出せなかった。ダリの作品はある程度、タイトルまで覚えているのだが…。調べてみたら「立体鏡的の中のダリとガラ」だった。ちょっと、私も小論文に挑戦してみようかと思う。なぜなら、Y君の受験した学科に一時私も憧れていたからだ。
サルバドール・ダリの作品の中に、愛するガラを鏡を使って描いている作品がある。ダリの後期の作品には、ガラを描いたものが多い。代表的な「ポルト・リガトの聖母」では、聖母マリアにガラを置き換え、ダリの後期の特徴である原子物理学的な手法を使い始めている。ダリにとって、ガラは愛する人であり、モデルであり、そして母である。ジョン=レノンにおけるオノ=ヨーコ的な存在だといってよい。
この鏡を使った作品には、いくつかのシュールリアリズムの特徴がある。ガラとダリ本人の自画像を鏡に映すことによって、モデルとそれを描く画家としての2人の関係を見事に描いていること。この絵には、鏡という空間の中にリアリズムを押し込めてあること。ダリの描いているキャンパスには、ガラの後ろ姿など、何も描かれていないこと。
この作品が、極めて超現実的な芸術作品であることは、この3点から読み取れるわけだが、私が最も重視するのは、ダリが絵筆をふるうキャンパスには、何も描かれていないことである。ダリは、基本的にはパラノイアであり、特に後期は、様々な事物を作品の中に押し込みすぎるというきらいがあった。この無地に描かれたキャンパスが、見る者に新たなイマジネーションを想起させる。ダリは、リアリズム的にガラの後ろ姿を描いているのか?それとも、まったく違う姿を描いているのか。単に絵画のバランスのために、単色に仕上げたのか?
鏡に描かれたリアルな2人。それを描いているダリの無地のキャンパス。この対比がこの作品に込められたもののような気がする。鏡に映る姿が光であれば、ダリの無地のキャンパスは影である。この時期、ダリとガラの間に何か葛藤があったのかもしれない。そんな空想を書き立てる作品であり、鏡というモチーフは、そういった空想をかきたてるにふさわしいツールであるといえよう。
まあ、なーちゃって作品論に堕してしまったが、これで何点ぐらいもらえるのだろうか。2月になって、社会科学の小論文的なエントリーを多発してきたが、2月の最後の日である。1人だけ芸術系の大学受験に勇んで戦ったY君に贈りたいと思う。
2019年2月28日木曜日
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