2019年2月24日日曜日

「日米の架け橋」D・キーン氏

D・キーン氏が逝去されたというニュースが流れた。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO4168571024022019000000/

D・キーン氏は、海軍の日本語学校で、日本語を学んだ。これは、(極めて少数の)日本軍捕虜から情報を聞き出すために、日米開戦後、アメリカが開校した学校だ。こういう戦略的な思考ができる国に日本は戦いを挑んでしまったわけだ。捕虜から聞き出した情報をもとに、B29が、工場地帯を爆撃する際も、どこに爆弾を落とせば最も効果的かというような地図が作成されている。キーン氏はそういう所で日本語を学んだわけだが、やがて日本に魅せられ、日本文学の研究者となり、多くの文学作品の英訳を手がけた方だ。文化功労者、文化勲章も受賞している。

ところで、PBTで面接練習をしていて、「マレーシアと日本の架け橋となりたい」などと、最初学生は言い出すコトが多い。その志はともかくも、私は、実はこのレトリックが好きではない。架け橋となれるような人物は、希少である。架け橋になる、ならないは、その功績で決まる。他者が決めることだと私は思っている。ラザク先生しかり、マハティール氏しかり。

しかし、D・キーン氏は、日本とアメリカとの架け橋だと言っても誰も文句はいえまい。軍事的な理由から日本語を学んぶ機会を得たといっても、それは後の功績から見て微々たることである。反対に、まるで、パウロのごとき回心で、伝説的であるとさえ思われる。

私は、日本文学の徒ではないので、D・キーン氏の功績を論ずる資格もない。しかし、日本文学を志すPBTの学生諸君には、氏の功績を論ずることが出来るまでに成長して欲しいと思う次第。大変な努力がいると思う。だが、ハードルが高いほど、やりがいもある。

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