昨晩、寝ようとしたら、あるプロブレムを突然思いついた。その解決のため、今日はPBTまで2回行き来するハメになった。1回目の登校時は、坂の途中で650番のバスが来た。2回目は帰りが650番だった。タマンデサと日本人会周辺でずいぶん坂道を行ったり来たりした。一応の対応が終わったのは昼を十分過ぎていた。
とはいえ、忙中閑あり。バスの中で面白い本を読んでいた。佐藤優の新書「サバイバル宗教論」である。もちろん、日本人会の無人古書コーナーで手に入れたRM1本である。臨済宗の僧の研修会での講演内容を新書版にしたものである。故に、宗教学的にはレベルが少しばかり高い。(第二章は特に、である。)今回は、まず第1章を備忘録的にエントリーしておきたい。
神学の話。神学の論争は1000年以上かかっても結論が出ていない。神学論争では常に論理的に弱い方、無茶なことを言う方が勝つ。その勝ち方も狡猾で、軍隊が介入して弾圧を加えるとか政治的圧力を加えるという形で問題解決してきた。神学の特徴は積み重ね方式ではなく、論争は些末に流れ、いつの間にか消えてしまい、また同じ議論が蒸し返されることになる。
ヨーロッパの大学には、神学がないと総合大学と名乗れない伝統がある。中世の大学では、一般教養、自由学芸(哲学)を11年やった後、医学部なら5年くらい、法学部なら7年くらい学ぶ。そしてもう一つの選択肢である神学部は16年かかる。(当時本は1冊ずつ貸し与えられ、それを暗唱できてやっと次に移れるらしい。)したがって27年くらい神学を学んでようやくヒヨコとなるそうだ。卒業率は5%くらいだったそうだ。
同志社大の魚木氏によると、「純粋なキリスト教など存在しない。」それぞれの地域の文化に触発され類型をつくってきた。最初のユダヤ類型、パウロ後のギリシャ類型、カトリック後のラテン類型、宗教改革後のゲルマン類型やアングロサクソン類型、あるいはロシア類型、スラブ類型…。日本のキリスト教は日本類型。日本的なではなく日本キリスト教であるという。日本類型は仏教の救済という精神的伝統の中で受け入れられているので、救済に関する感覚が強いのだ、と。秩序的には儒教、自然観では神道の影響がある日本ではこれらの相互触発の中でしかキリスト教は理解できないと主張していたそうだ。
…その後、同志社の神学部では仏教を深く学ぶカリキュラム(1年時に世親の阿毘達磨=倶舎論、2年時に竜樹の中観、3年で唯識)の話が出てくる。昔、息子が神学部の修士課程に合格した時、学部から博士課程までの電話帳のようなシラバスが届いた。たしかに仏教を始めとした様々な講座があって、うらやましく思った記憶がある。…つづく。
2019年2月2日土曜日
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