https://partiallyexaminedlife.c om/2015/03/16/ep112-ricoeur/ |
哲学の世界は、連鎖の世界である。先達の哲学を批判しつつ進んでいく。ハイデッガーの存在論とフッサールの現象学は、フランス哲学の前に立ちはだかっており、先日述べたようにレヴィナスは、ユダヤ・タルムード神学的な解釈で、自己の哲学を確立している。さて、リクールはというと、フロイドの精神分析学を哲学の立場から論じ、新たな現象学を打ち立てた。
高校生にもわかるように概説すると、フッサールの現象学というのは、現前にあるもの=現象を、我々はわからないのにわかったように信じているにすぎないという事である。そこに「あるのは、わかろうとする意志」でしかないということになる。リクールは、フロイドの精神分析から、『無意識は本質的に他者によって、本人自身の意識では決して行うことのできない解釈学の対象として練り上げられたものである。』と分析してみせた。誤解を恐れず極論的に言ってしまうと、リクールは、無意識こそが自我であり、デカルト哲学の思惟する自我(理性)=コギトは間違っている、としたわけだ。
彼は、フロイド、マルクス、ニーチェらが疑った「コギト批判」を受け入れ。意識は虚偽であり、その虚偽や誤解を正すのが「反省」である。意識は所与ではなく務めである。フッサールのコギトも必当然的であっても十全的ではないと言う。(十全的とは、概念または判断がその表す対象と完全に相応することである。)この批判を受け入れたコギトをリクールは、「傷ついたコギト」と表現した。
『コギトは自己を措定はするが、自己を所有しない。これは現実の意識の不十全性、錯覚、虚偽の自認することにおいてしか、その本源的な真理を理解しないコギトである。』
この傷ついたコギトから十全なコギトを回復するには、反省によって意識的になることである。
またまた高校生向けに言うと、「傷ついたコギト」とは、要するに、我々の思惟する自我=理性は、実は無意識によって成り立っており、反省(様々な現象は本当のところわからない。という意識を持つ事)が絶対に必要だということになる。
今日の補習でも、最後にこんな話をした。「私が話したことは、すべて正しいなどと思わないでほしい。私の得た情報や知識が誤っていることもあるかもしれない。」そいう傲慢を常に反省する姿勢が「傷ついたコギト」からの回復の道であると私は思う。
周りを見渡せば、「傷ついたコギト」が多数存在するように思う。思い込みや狭い考え方に囚われている人を「傷ついたコギト」などと呼ぶ事にしようか。
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