2025年1月9日木曜日

ゼロからわかるキリスト教

学院の図書館で、佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)を借りてきた。帰宅途中に35Pほど読んだが、すでに付箋を10個以上付けてしまった。(図書館の本には、赤線など引けないので、重要だと思われる箇所には、小さな付箋を貼る習慣になっている。) 

この本は、佐藤優が「キリスト教について語る場合、種々の偏見があるために、そのような偏見を除去するためにマイナスから出発せざるをえない。こういう不毛な作業を避けるために、(中略)日本人の大多数は自らを無宗教と考えている(故に)、宗教は民衆のアヘンであると定式化したマルクスに焦点をあてれば、逆にキリスト教の特徴が明らかになるのではないかと考えて作成されたのが本書である。」とまえがきで書いているように、「ヘーゲル法哲学批判序説」をもとにした新潮講座で語った内容をまとめた本である。

…佐藤優氏らしい、なかなか面白い切り込み方である。佐藤優氏の本はかなり読み込んでいる。同志社神学部での思想遍歴もある程度知っている。無神論を研究しようとして同志社に学び、1年後にプロテスタント(日本ではカルヴァン派の会衆派も長老派も昔に合同しているので、こういう表現方法になる)の洗礼を受けたことも知っているし、チェコの宗教改革の先駆者・フスを研究したことなども知っているのだが、本書でも後にふれることになっている。

本書は2016年の発行なので、イスラム国(ISIS)の話から始まる。佐藤優氏は、ISISを資本主義の本質(いつだって資本は貪欲に自らを増殖させていくことい血道をあげ、無意味で過剰で不公平な競争へ人々を追い込み、途方もない格差を生むこと)の打破への一つの対抗策(=プレモダン、近代以前への回帰)として理解できるとしている。しかし、このような資本主義打破への模索は、100年前からずっと続いていると氏は言う。WWⅠはまさに、近代の理性が生み出した悲惨な戦争であり、理性への信用が喪失(近代=モダンの危機)は今だ続いているといってよい。ポストモダン的なものによって近代を脱構築できるのではないか、近代を超克できるのではないか、という試みはあったものの、1980年代の日本ではこれをものにしたのは広告代理店くらいで、ポストモダンは小さな差異をつけて商品やイメージを作り出し利益を得たに過ぎない。よって、やはりマルクスを読む必要がある、という話がなされている。

…この記述のISISについては、中田考氏がカリフ制再興という観点から、資本主義的な領域国民国家(中田氏はこの表現がお好き)のイスラム世界における打破を強く訴え、シンパシーをある程度持っておられる。私は、佐藤優氏と中田考氏の愛読者なので、両者の対談を望みたい。意外に意気投合されるような気がする。

…この記述の後半には、デリダの脱構築理論(おそらくフーコーの物語理論も含めて)ポストモダン批判が書かれているが、私の倫理の授業では、まさにこの佐藤優氏の言われる広告代理店的な話をする。携帯会社の白い犬のCMシリーズや他の携帯会社の桃太郎・浦島太郎などのCMシリーズなどで、脱構築を高校生に理解させることが一番わかりやすいのである。ここの記述は、妙に嬉しい。(笑)

これからもますます付箋が増えるだろうと思う。当分の間、本書の書評がブログの主役になりそうである。

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