2025年1月21日火曜日

「疎外論」と「物象化論」

佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第11回目。ヘーゲル法哲学批判序説の本文「人間の自己疎外の神聖な姿が仮面を剥がれた以上、神聖でない姿での人間の自己疎外の仮面を剥ぐことが、まず第一に、歴史に奉仕する哲学の任務である。」の「疎外」について、今回はエントリーしたい。

疎外とは、「本来のものがあるにも関わらず、それとは違うものになっている。」という意味である。この本来のものという概念は、我々日本人には理解が難しい。なぜなら、この本来のもの=在りて在るものとは、神や理想的な状態、自然状態といった実証できない(キリスト教的な)形而上学的なものであるからである。

このマルクスの疎外論に対して、廣松渉氏は、マルクスの解釈を皆間違っていると言っている。マルクスは本来のものという考え方を自体を拒否しているのだ、と。関係の第一義性を唱えた廣松渉氏は、現象学的なアプローチから、すべての物事は関係性から生まれていると言った。これを物象化論と言う。

佐藤優氏は、この物象化論は、実は仏教の阿毘達磨、中観や唯識の考えに近く、本来あるものを設定するのではなく、無や空から生じる、縁起論に似ていると言う。また知的な分野で指導的な欧米では「疎外論」が今も中心だが、「物象化論」との両者、どちらを取るかは、個人の趣味の問題だと結論付けている。

…倫理の授業では、マルクスは、労働に人間の価値を置き、その労働による充実感こそが本来のものであるのに、剰余価値説によって資本家に搾取されている故の非本来的なありかたを疎外と教えることが多い。マルクスの言う「神聖でない姿での人間の自己疎外の仮面を剥ぐこと」は、”神に代わって肉体という要素を持つ労働”という意味に私は受け取っているのだが…。

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