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日本人が宗教について考える時、皮膚感覚で理解しにくいのは一神教の感覚であるのだが、その表裏一体の関係にあるのが、哲学で言う「存在論」(ontology)である。この存在論には、我々が物事を考える際に、「見えている世界」の背後に「見えない世界がある」という暗黙の前提がある。これが形而上学で、中世までの形而上学では、上(神のいる天国)と下(地獄)というヒエラルキーがあった。ところが16世紀以後、コペルニクスやガリレオが地動説を唱えて近代的な世界観が開かれる。これによって、形而上学的な上の世界の存在が否定されてしまった。哲学は組み直しを行ったが、神学(特にカトリック)は近代以前の世界観を守ろうとし、今もそのままである。それがカトリックの強みである、と佐藤氏は記している。
…存在論とカトリックの形而上学の対比は実にメタな視点である。中世から近世への西洋思想史における大転換。この対比については薄々感じていたが、哲学側の人間である私から見ると、どうしても批判的に見るしかなかったのだが、これ以後も論じられていく、超重要命題である。
ここで、サクラメント(=秘跡)についての話が出てくる。カトリックでは7つのサクラメント(洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油(とゆ)・叙任・結婚)がある。聖体は、ミサで、イースト菌の入っていないパン(=ホスチア)がキリストの肉となり、葡萄酒がキリストの血となるとされている。神秘的な力が働くからで、サクラメントとミステリーの語源は同じである。ちなみに多くのカトリックでは、葡萄酒は神父が飲むだけである。床に落としたら不敬にあたるという由来で信者が辞退したという伝統から来ている。オーソドックス(正教会)では、葡萄酒を信者も飲むが、万一床にこぼした場合は、乾かして床を切り取り焼いて灰にする。キリストの血が肺になり聖遺物化するという処理方法をとるとのこと。加えて、オーソドックスでは、このパンと葡萄酒がキリストの肉と血になることを議論することは、機密(オーソドックスのサクラメントの和訳)を疑うことが信仰に反するとしているとのこと。
ちなみに、プロテスタントでは、サクラメントは聖餐(カトリックの聖体と同義)と洗礼の2つのみである。結婚がサクラメントにはないので、離婚は奨励しないまでも禁止はしていない。
…学院で、昨年6月の聖母祭のミサを見学した際、校内の信徒(先生も生徒もいた)の聖体拝領はホスチアのみで、葡萄酒は私のいた後方から神父に持って行ったのを見させてもらった。葡萄酒を持って行った宗教委員の生徒は3年生でよく知っている生徒だったので明確に覚えている。
…カトリックでは、結婚がサクラメントに入っている故(以前読んだ知識だが、死別した場合を除いて)一応原則禁止だと言う話なのだが、昨日、宗教科のN先生に、この話題を出したら、人定法の民法などでは離婚が認められているので、教会法では、神父が立会う結婚式は2回はできないということと教えていただいた。「この辺のリベラルなスタンスは、カトリックの強みですね。」と申し上げたら、「たしかにそうですね。」と笑顔を返された。
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