ここから2つの流れができる。1つは、イエスの実在が証明できなかったのなら、イエスとともにイエスを送ったとされる神の存在も証明できない(=存在しない)。では、人間はなぜ、どのようにして、神の概念をつくってきたのか突き詰めて考えるべきであるという「無神論」の立場であり、2つ目は、イエスの存在は実証できないかもしれないが、2世紀のはじめに「かつてイエスがいた。神の子であり救い主だ。」と信じる人々が存在したことまでは、事実(新約聖書等の文書の存在)として実証できる。そこまで実証できるのなら、イエスの教え、救済など原始キリスト教の論理を掴むことで我慢すれば良い、というプロテスタント神学の主流の考えである。佐藤優氏によれば、マルクスは、無神論とプロテスタント神学の「分水嶺」にあたるとしている。
ここで、このあたりに記されている逸話集。①ヨーロッパの国立の総合大学にはフランスを除いて全て神学部がある。フランスは、フランス革命後完全に国家と宗教を分離したので、ドイツと領有を長年争ったライン川西岸の(無神論的な)ストラスブール大学以外に、国立大学に神学部はない。公立学校でも、十字架をぶら下げることは、(ムスリムのヒシャブ以前から)規制されている。②日本の無神論の中心は、東大の西洋古典学科で、戦後占領軍の要請に激しく抵抗した歴史がある。聖書学者であっても神学者ではないというスタンス。京大は、神学がやりたくて同志社に入った(明治時代の貿易商でイスラム教徒だった父親をもつ)有賀銕太郎教授が、占領軍と交渉して文学部にキリスト教学科をつくった。
…「史的イエスの探求」の100年は、メタな視点で見ると実に重要である。無神論が、ここに由来することは容易に推測できるが、佐藤優氏にはっきり示してもらえるとありがたい。意外に面白かったのは、逸話集である。有賀銕太郎氏の戦前・戦中・戦後の話は俊逸であった。ちなみに東大の西洋古典学科出身の田川建三氏は、同じ無神論的なストラスブール大学神学部に学んでいる。調べてみると、田川氏は自らを「神を信じないクリスチャン」と名乗っているそうだ。
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