2025年1月22日水曜日

「人間的な高さまで高める」考

https://weekly-economist.mainichi.jp/
articles/20210713/se1/00m/020/060000c
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第12回目。ヘーゲル法哲学批判序説の「ドイツは原理の高尚さにふさわしい実践に到達できるか、言い換えれば、ドイツを近代国家の公式水準にまで高めるばかりでなく、この国民が近い将来達するであろう人間的な高さまで高めるような革命に到達できるであろうか、ということが問題になる。」という本文の「人間的な高さまで高める」について今回はエントリーしたい。

佐藤優氏は、この「人間的な高さまで高める」の人間は、神を崇拝する代わりに本来の人間、理想的な高さに在る人間を崇拝すれば良いとマルクスは言っていると述べている。ヒューマニズムとは、結局のところ、神を人間に置き換えた思想であるわけだ。だが、ここで、ユダヤ教・キリスト教の原罪が問題になる。アダムとイブから、人間は責任転嫁・自己保身をしてきた。イスラム教やナショナリズムには原罪というメカニズムがないから、絶対に正しいと信じることに邁進することが可能になる。仏教の場合は、悪に傾きやすいという人間観を持っている。仏教はキリスト教の性悪説と少し似ているが、キリスト教の原罪が全身の入れ墨みたいなものであるのに対し、仏教は墨抜きが可能で、罪からの開放能力があると、述べられている。

…ブディストとして、この原罪の(入れ墨的)対比が実に面白いと感じた。仏教の無明は、煩悩によるものであるから、この煩悩の超克が成仏への道になる。キリスト教的な罪という語彙には今だ違和感があるが、煩悩と読み替えれば親和感はある。「人間的な高さまで高める」ということは、究極的には人間が持つ煩悩の超克による仏性の湧現という理解に落ち着くのである。ちなみに、仏性の湧現=成仏は刹那的(一瞬よりもっともっと短い時間)なものと私は理解している。

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