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https://career-diversity.com/2024/06/17/eid-aladha/ |
まず、ムスリムにとって、隣人とはムスリム全てであること。私の経験では、マレーシアでマレーの生徒との対話の中で、イスラエルへの敵意を感じることが多かった。同じムスリムのパレスチナ人を隣人と捉えていたこと。難民問題を話していて、ミャンマーのムスリム・ロヒンギャの人々をマレーシア政府は受け入れるべきか否かと問いかけた時、即答で皆がYESと答えた。国家を超えて隣人として見ていることは明白であった。(ただし、同じムスリムでも、シーア派に関しては隣人だと言いかねるらしい。その理由はアシュラという祭の存在だった。よって、スンニー派の中ではという但し書きが必要かもしれない。)本書でも様々な例が引かれていたが、私自身の体験からもムスリムの隣人意識を推し量ることができる。
次に、喜捨(ザカート)についてである。シャリーアなどに記されている詳細は後に譲り、これもマレーシアでの体験に基づいて記しておきたい。マレーシアでは、駅などで物乞いを見かけることが多い。ムスリムを中心に相手が、中国系であれインド系であれ喜捨する姿を頻繁に見た。バスなどで席を譲るのも民族を超えてよく見た。こういう利他の姿勢はマレーシアでは決して珍しくない。独立記念日には、国王による貧しい人のための非常に大規模な食事会が催される。たまたまその日にバスに乗ったのだが、貧しそうな身なりのバングラディッシュ人たちが大勢乗ってきたのに出くわしたことがある。また、犠牲祭(イード・アル=アドハー:本日の画像参照)の日には、モスクで牛を屠り、貧しい人々に分け与えられるのを屋外から見学したこともある。数日前からモスクには、牛が何頭か繋がれていて、まさに”ドナドナ”感が漂っていたが…。ムスリムの世界では、富める者が貧しい者に分け与えるのは当然のこととされている。モスクも、国立や州立のものもあるが、多くは、スルタンが寄進したものをはじめ、富める者が寄進しているのが普通である。ちなみに、隣人観と重なるが、各モスクには日本の寺院の檀家制度のようなものはない。ムスリムであれば、どこのモスクに行こうと全く問題はないのである。
こういったムスリムの隣人観、喜捨の精神といった視点が本書の基軸をなしている。…つづく。
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