![]() |
https://ja.sekaiproperty.com/article/3770/stay-malaysia-islam |
天国に行くための義務としてのイスラームの喜捨は、やはり神への絶対的な服従がなせる技であると思われる。人間には欲望(仏教的に言えば煩悩)がある。経済的な欲望を抑えることは至難である。故に神の設計図がない(=ユダヤ教やイスラームのような律法やシャリーアが存在せず、自然法的なスタンスを取らざるを得ない)キリスト教では、利子を結局のところ認めざるを得なかったといえる。多神教世界では、天国という概念が希薄だし、イスラームの喜捨という概念も理解できたとしても、実践に移すことは容易ではない。まして中国のような人口圧にまみれた世界では、欲望が他者のことなど考えない利己主義に昇華しているといえる。日本国内における米の買い占めやマクドの子供のための景品を買い占めに走る中国人の行動は嫌悪を頂くし、全く理解不能である。https://www.youtube.com/watch?v=2-8Ls958d2o
私はこれは深く人生観に関わる問題であると思う。カントは、判断力批判の中で、真善美という価値の追求を説いたが、ムスリムにとっては、それは神の領域であり、無意味なことである。ただただ神に従い義務を果たすというスタンスがあるからこそ、公平を実現できていると思われる。これは、善悪や正邪の問題でもない。マレーシアで3年半過ごした私は、ムスリムの生き方を否定しない。リスペクトべきであるとも思っている。だが現在の金融資本主義をイスラム金融や喜捨の精神が凌駕できるか、と問われれば、否と答えるしかない。
それは、神(ここではアッラー)への信仰がなにより必要だからである。その前提なしには、同じ神を信仰するユダヤ教徒やキリスト教徒では、義務的に欲望を制御できないし、多神教世界、就中、中国のような利己主義が価値として蔓延する人々には到底無理だと思うからだ。意外に、日本の文化には、他者への思いやりが根付いており、喜捨については理解が十分可能であると思われるが、日常的な実践についてはやはり無理が生じるのが現実であろう。ある意味で、残念な見解になってしまったが、この問題、これからも考えていこうと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿