2025年5月28日水曜日

「サコ学長、日本を語る」Ⅱ

https://note.com/kyotoseika/n/nefc5cec3394d
元京都精華大学(画像参照)学長のサコ氏の「サコ学長、日本を語る」書評の続きである。昨日、妙にマリの宗教事情について記したのには理由がある。少年期の話の中で、サコ氏の父親が国家公務員であり、それなりに裕福であったようだが、多くの親戚や知人、そのまた知人などが居候していた話が出てくる。これをどう捉えるべきか?

一つの仮説は、最近「イスラームからお金を考える」で長らく記したが、イスラム教徒故の喜捨意識である。貧しいもの、困っている者への援助は、神の望む姿であり、天国に行く道であるからだ。

もう一つの仮説は、アフリカに存在する「情の経済」故である。富める者は貧しい者を助ける習慣があり、血縁・地縁が有効である。特に農村から都市へ出てきた者に冷遇はできないし、第三者から見るとタカられることが多い。それがフツーである。

私は、この2つの仮説の1つ、もしくは両方であると思ったのである。ただ、不思議なことに、サコ氏の父親は、カトリックの私立学校への入学を認めている。熱心なイスラム教徒ならありえないことではある。ただ、政権に近いエリートである国家公務員としては、息子を将来エリートとして育てるためには、フランス語の習得が必須である故に送ったとも取れる。

私は、マリの南部に位置するブルキナファソで、不思議な光景を目にした。それは、キリスト教徒の十字架が掲げられた墓地とイスラム教徒が埋葬されている墓地が共存している姿だった。中東やマレーシアでは考えられないと思う。意外に旧フランスの地域では、そんなに対立していないのかもしれない。ちなみに、イスラム復古主義者がキリスト教徒にテロなどを起こしているのは、旧イギリス領(ナイジェリア、エジプトなど)に多いといえる。

書評といいながら、仮説で終始してしまったが、実に興味深いところ。サコ氏は明確にイスラム教徒であるという記述はない。また彼の発想や意見には、あまりイスラム色も見られないと感じている。その内容については、次の機会に、と思う。

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