2024年12月7日土曜日

ウィレドゥのアカン語分析哲学

https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/2011/25/news010.html
「アフリカ哲学全史」(河野哲也著:ちくま新書)の書評、最終回。前回のエントリーを受けて、ウィレドゥのアカン語分析哲学の内容について。

ガーナ・コートジボワールの言語であるアカン語では、英語のtruth(真理)にあたる語彙は、nokwareであるが、その反対語は「偽」ではなく、「うそ」である。nokwareには、truthと重複する意味を持つが、第一義的には「道徳」で、言葉と心の一致=「二心なきこと」を意味している。このアカン語の真理(真なる認識)は、共同体メンバーの合意ではなく、認識論的な強い基準が働いており、ある人が誠実に語り、それを真実だと信じていることが含まれている。よって、反対語が「うそ」になるわけだ。よって、アカン語には英語のtruthそのものに相当する語彙はないといえる。同様に英語のfact(事実)にあたる語彙もない。

よって、アリストテレス以来の伝統的な真理観(ある命題が真であるというのは、現実の事実と一致している場合である。)が成立しない。アカン語では、「…は真実である。」という表現は、上記の道徳を基準とした認識論がある故に不要なのである。この認識論はポーランドの論理学者・タルスキの真理論に認められる。(余談だが、かの分厚い岩波の哲学事典を引いて確認した。)アカン語では、西洋で通念として普及している言語の表象主義的考え、すなわち言語は現実を鏡のように映し出すものであるという考えを全く持っていないのである。

さて、現代では、有名なトロッコ問題のような(認識と美徳を関連させる)徳倫理学が西洋哲学にも登場した。真理の領域と道徳の領域を切り離すのではなく、社会構造や社会史の視点から批判的に検証する動きである。ウィレドゥがアフリカ哲学の視点として提唱する比較哲学が、あらゆる哲学を高次の視点から捉える有効な方法として提案できる、とこの事実をもって著者は記している。

…西洋哲学の限界を知らしめる話であった。最後のオチはトロッコ問題(画像参照)となった。ところで、これまでのアフリカ哲学の書評の中で、アフリカには先祖を敬い、共に生きているような信仰や文化が強く残っているのだが、そのことについて最後にブディストとしての所感を述べておきたい。仏教では業や輪廻といったインド哲学が土台にある。中でも業(カルマ)は、医学的にも、自分のDNAには先祖の影響が書き記されているという説がある。アフリカと仏教思想には意外な共通性があったりして…と思ったのである。

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