彼の哲学は、「概念的脱植民地化」を目指したものであるといえる。これは、政治的闘争によってではなく、反省的な意識によって植民地における近代化のジレンマと対決すること、であるといえる。アフリカの哲学的思考から植民地時代の過去に由来するあらゆる”不当な”影響を取り除くこと、を意味する。ここでの”不当な”という語彙が意味するところは、植民地時代の全てを拒否するのではなく、たとえ植民地支配者に先導されたものであれ、人類にとって何らかのカタチで有益である場合は、無視したり排除したりする必要はないという、文字通りの「脱」である。
彼の「概念的脱植民地化」は、アフリカ文化に2つのことをもたらそうとした。1つは現代アフリカ思想に染み込んでいる過去の部族文化の好ましくない側面を取り除き、その思想をより発展可能なものにすること。2つ目は、アフリカの哲学的実践に見られる不必要な西洋的認識論的枠組みを排除すること、である。
彼は民衆的な知恵や思想はそのままでは哲学たりえないと考えており、文化人類学的なアプローチには反対する。”過去の部族文化の好ましくない側面を取り除く”とは、そういう意味合いである。
アフリカの植民地での教育は西洋語でなされてきた。これは、枠組み自体から、西洋を無自覚的に優位にさせてしまう。よって、西洋語のなかで当然視されてきた諸概念を批判的に検討する必要がある。(同じことは西洋人側にもいえる。西洋語の枠外の文化を西洋のカテゴリーで吟味できない。)アフリカの哲学者は、アフリカの哲学的諸概念を西洋語で理解していることを意識し、同時に西洋の哲学的概念をアフリカの言語で検討できるということを常に意識しなければならない。ウィレドゥは、哲学は根本的に「比較哲学」でなけれなならないとする。”アフリカの哲学的実践に見られる不必要な西洋的認識論的枠組みを排除する”とは、このことである。
…ウィレドゥ以後、アフリカでも分析哲学的なアプローチが盛んであるようだ。本書では続いて、西アフリカのヨルバ語やアカン語による比較哲学の内容が記されている。これらについては、「アフリカ哲学全史」書評・最終回となる次回のエントリーで。
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