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大戦後の1923年、イギリスは国際連盟によって、パレスチナとトランス=ヨルダンの委任統治権を得た。イギリスがこれらの地を征服し、連合国側にもたらした見返りである。ユダヤ人にとっては、イギリスは頼みの綱だったが、アラブ系の反発は極めて強かった。以来30年間イギリスはそのバランスを取るため揺れ続ける。なにより、委任統治開始直後に、フセイン=マクマホン書簡の内容はパレスチナ以外の中東地域に適用されると言い出し、その後も様々な約束をしては変更を重ねていく。結局、サイクス=ピコ協定とバルフォア宣言が生かされ、アラブの指導者たちは裏切りに怒り心頭となるわけだ。
余談だが、正式にイギリスが委任統治する以前の占領下、1921年ヤッファでアラブ人の暴動が起こる。この時、チャーチルが白書(公式文書)を出して、ユダヤ人のパレスチナへの継続的だが無制限ではない移住に賛成した。これは、イギリスがシオニストを全面支持しているわけではないことをアラブ側に保証しようとしたものだったが、ゼロサムゲーム的な暴力をイギリスは抑え込むことはできなかった。
国中に散在するユダヤ人共同体は、ユダヤ機関の指示で民兵組織ハガナ(ヘブライ語で防衛)を組織する。この頃のハガナはまさに専守防衛で民間人への攻撃や、報復行為は少なくとも建前上堅持されていた。イギリスは、この暴力の連鎖を断つべく、パレスチナ移住を白書で制限した。これに対し、右派の活動家がイルグン(組織・機構という意味のヘブライ語)という現在的に言えばテロ組織を組織する。イギリス軍と協調的であったハガナとも衝突する。この指導者が後の首相となるベギンであるのには驚かされた。
こうした中、ヨーロッパでナチによる反ユダヤ主義が再燃し、パレスチナ移住が加速される。アラブ人は1936年大規模なゼネストを行った。イギリスは分割統治案を出す。(ビール委員会)ゼネストは、武装蜂起に発展、イギリス軍(とハガナ)は何千人ものアラブ人を殺害し、弱体させた。イルグンは爆弾テロを実行し、ユダヤ人指導層から非難された。WWⅡ前夜の1939年、イギリスはマクドナルド白書を出して、分割統治を破棄、アラブ人(100万人)とユダヤ人(50万人)の共同統治と移住の著しい制限を発表した。この後、ヨーロッパで600万人のユダヤ人が絶滅する最も危険な時期のことである。
…イギリスの三枚舌外交を時系列で追いながら、パレスチナの状況はますます混沌としていく様子は両者にとって実に悲劇的だ。ハガナとイルグンの成立も、これ以後のイスラエル軍の方向性にとって実に重要である。やはり、受験の世界史では本当の歴史を感じきれないと思う。まあ、範囲が広すぎるし、時間がないので仕方がないか…。
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