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1947年11月から翌年8月まで、ユダヤ人民兵組織とパレスチナのアラブ人・近隣の志願兵の間で内戦となった。アラブ側は、主要都市部から離れたキブツやコミュニティを攻撃し、エルサレムを包囲。2月にはアラブ系の過激派がエレサレム市内で爆弾テロを行い50人の市民と数百人の負傷者を出した。4月、極右の過激派イルグンとレヒ(イスラエル開放戦士団)が、ディル・ヤーシン事件(民間人の婦女子を含む250人を虐殺)を起こす。ユダヤ機関やイシューブから非難を浴び、アインシュタインやアーレントもアメリカから糾弾した。しかし、この事件がアラブ系の人々に与えた恐怖は大きく、戦況が反転する。ただ、著者によると、この事件は、今のイスラエル支持者にはあまり知られていない、という。
1948年5月14日テレアビブ美術館(現独立記念館)で、ベングリオンは独立宣言を行う。アメリカのトルーマンはすぐさま承認した。翌日、トランスヨルダン、シリア、エジプト、イラクの軍隊が侵攻、戦争(第一次中東戦争)は第二段階に発展する。イスラエル国防軍は、イルグンとレヒも統合したが、彼らは過激派として従わなかった。ベングリオンは、彼らの秘密裏な武器調達(テレアビブの沖合に停泊していたアルテレナ号)を赦さず、後首相となるラビンに砲撃を命じ、ユダヤ人同士で衝突した。しかし、これ以後は国防軍の統一が図られた。このように、ユダヤ人の中でもベングリオンら実利主義の社会主義的シオニズムの一団と、右派シオニストの対立構造は、すでにあり、現在のリクードなどに繋がっている。
1949年7月20日、中東戦争終結。歴史的パレスチナの78%をを領有。ヨルダンは、ヨルダン川西岸と東エルサレム(但しヘブライ大学のあるすコーパス山はイスラエルの飛び地)、エジプトはガザ地区を得たが、パレスチナ人には何も得られなかったばかりか、約70万人が難民化した。
…ホロコーストによるユダヤ人の悲劇は、西側が罪の意識を持つことは当然としても、パレスチナ人がその贖罪をしなければならない、というのはまさに理不尽であるといわねばなるまい。
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