2024年12月5日木曜日

共同体ヤハドとキリスト教団

https://www.veltra.com/jp/mideast/israel/a/19078
死海文書が投げかけた最大の争点は、おそらくイエスが生きた時代と同時代の共同体ヤハドとの関係であるといえる。

死海文書と新約聖書の類似点も多く、四福音書の他にも、使徒行伝、ローマ人への書簡、コリント人への書簡など数多い。新約聖書の成立はもう少し後なので、新約聖書の作者ではないにせよ、大きな影響を与えているようである。と、いうことは共同体ヤハドは、初期キリスト教団と何らかの関係があったと見るのが正しそうである。

本書では、様々な学説が併記されているのだが、ここでは著者の仮説を記しておきたい。(死海文書が出土した)クムランを拠点とする共同体ヤハドは、エッセネ派と呼ばれる敬虔で高潔な人々のグループだった。紀元20年頃、彼らは洗礼者ヨハネを指導者として、過激なユダヤ国粋主義に向かった。その重要なメンバーであったイエスが、従来のユダヤ律法中心主義ではなく、もっと普遍的な人間中心主義の教えを説くに至って、組織に内部分裂が起こり、初代キリスト教団の核ができた。そしてローマ反逆の疑いでイエスが磔刑にされた後、イスラエル全土のヤハドは雪崩を打ってキリスト教団に転向した。エッセネ派という語が死海文書にも新約聖書にも一切見当たらないのはそのためであり、イエスに近かった特に知的な層が新約聖書の原資料を書き始め、ユダヤ教関係の(ヤハド独自のものも含む)文書は、全て不要になったものとして、付近の洞窟の中に収められた。これが死海文書の実体で、彼らにとって文字にして後世に残すべきものは、これから書かれる新しい契約の書、すなわち新約聖書のみであると決意した。一方、キリスト教団に参加せずヤハドの信条に固執した人々は、クムランやマサドの要塞でローマ運と戦い玉砕した。後は歴史書の伝える通りである。

…なるほどと私は納得した。気になるのは、洗礼者ヨハネとの関わりである。著者の仮説は、福音書や旧約のイザヤ書と矛盾しない。ペテロやアンドレも最初はヨハネの弟子だとされている(ヨハネによる福音書1ー35)し、ルカの福音書(3ー5・6)ではイザヤ書を引用してヨハネをイエスの先駆者としている。マルコ福音書(6-14~29)にあるヨハネの死(サロメの話で有名)とも矛盾はなさそうだ。

聖書(旧約・新約とも)は実に複雑な書物である。そもそも矛盾があると、立ち止まっていては埒が明かない。とはいえ、この死海文書の著者の謎解きは実に矛盾がなく興味深いと思うのである。

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