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1880年代初頭、暴力的なボグロムや反ユダヤ主義を背景に、東欧出身の若いユダヤ人が集団を成してパレスチナに押し寄せた。(「上ること」を意味するヘブライ語で、”アリヤー”と呼ばれた。)彼らは、オスマン帝国の不在地主から購入した土地に町を建設し、農村共同体や都市共同体をつくった。この頃、ユダヤ人言語学者が、シオニズムの精神に則り、おおむね典礼的・宗教的な言語だったヘブライ語を日常的な話し言葉に変化させた。20世紀初頭までに、理想に燃えた社会主義的傾向の何万人ものユダヤ人が、東欧の強制集住地域から移住した。(つまり先住のスファラディではなくアシュケナジである。)キブツや自衛組織を立ち上げ、新しい制度を立ち上げたのである。その1つが、古代からの港ヤッファ近くのいくつかの砂丘で、誕生した(現在では)賑やかで、文化的で政治的に自由で、ヘブライ語を話し、近代的で世俗的な大都市テレアビブとなったのである。
ただ、初期の移民は生活があまりに困難で、もといた国に帰った者が多い。衣食住などの生活必需品にも事欠き、公共のインフラもほとんどなく、増え続けるユダヤ人にますます敵意を抱くようになったアラブ系住民がいた故である。しかし、キブツを建設し、さらに土地を購入し組織や制度を確固とした開拓者もいた。こうしたコミュニティは、「新イシューブ(新ユダヤ人共同体)」として知られる。1929年、後の初代首相・ベン=グリオンを初代議長とする世界中のユダヤ人にパレスチナ移住を促す「ユダヤ機関」が成立、前国家政府的な機能を果たすことになる。
…テレアビブの名がでてきたので、私が訪れた時、意外な事実を知ったことを記しておきたい。テレアビブは”バウハウス”の街だったのである。(本日の画像は、この建築がバウハウスであることの案内板)バウハウスとは、ドイツのワイマール時代の合理的機能的なデザインや建築の学校のことだが、ここでは、その影響下の建築を指していると考えてほしい。実は我が母校(大阪市立工芸高校)の教育の中心概念はバウハウスであった。宿泊したホテルが、極めてデザイン的な機能美を有していたので、確認したらバウハウスのホテルであった。もちろん、本日の書評とはかなり時間的ズレがあるのだが…。ちなみに、ヤッファも、となでもなく芸術的な街であった。
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