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第一に、資本主義は、それまでの経済システム(国王がすべての所有者であった時代は収奪の経済システム)と全く違った、近代社会に固有の経済システムであること。
第二に、資本主義は、生産力を持続的に拡大していく経済システムである。生産された財を商品として、共同体、国家間で交換し合うという(資本主義の前段階的な)自由市場経済システムが、国家の経済を飲み込み、ヨーロッパの諸国家全体がその圏域となった。17世紀以後、他の文明を制覇した理由である。
第三に、その生産拡大の根本構造を、普遍交換ー普遍分業ー普遍消費という構図で示せること。(ここで言う「普遍」は、「いたるところで」という意味)市場経済は、国家間で財を交易・交換する。自国で閉じられた経済より、交換の経済は両方に利がある故である。利を増やすためには、沢山の財だ必要でありので、共同体に働きかけ、分業を促す。この分業、つまり生産技術の向上が生産力を高める。(アダム・スミスの国富論のピンの話が例として使われる。)自由主義経済が資本主義になりためには、さらに「消費」という要因が必要である。近代市民国家では、一般市民が消費のサイクルに入って3つの歯車(普遍交換ー普遍分業ー普遍消費)が回り続けることが可能になった。(中国やイスラム世界では、商業は発展したが、近代国家化できなかった故にで資本主義にはならなかった。)
…この資本主義の「普遍交換ー普遍分業ー普遍消費」という構図を竹田氏は重視している。特に、後ろの普遍分業と普遍消費が重要だと思う。ただし、授業では哲学的にすぎるので使いにくい。
マックス・ウェーバー(画像参照)の『プロテスタンティズムと資本主義の精神』について、竹田・苫野両氏は批判的である。禁欲的な勤労、予定説的な精神は、資本主義の発達と軌を一にしてはいるが、必ずしも本質論ではない、と。聖書中心主義のプロテスタントが識字率を押し上げたこと、そのことによる高度な人材が経済成長を後押ししたこと、またヨーロッパの王権は弱く、プロテスタントの経済エリートに頼らざるを得なかったこと、すなわちブルジョワジーが権力をある程度掌握できたことなどの論を紹介している。
さらに、ヨーロッパの資本主義的「競争」意識を挙げ、16世紀以降の植民地争奪戦、スペインの没落を例に取っている。産業革命の重要性がよく語られるが、これは分業の発展形であると断じている。
…M・ウェーバー批判が実に興味深い。この定説は倫理などで必ず教えるところであるのだが、本書で指摘されている識字率や高度な人材、さらに王権の弱さとブルジョワの台頭などの話のほうが定説以上に重要だと思った次第。
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