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現代社会では、「良い社会」とは、「良い経済」とは、「良い福祉」とは何かといった問いが大事になっているのだが、この問題は、相対主義のポストモダン思想や科学的実証主義の方法では問う方法がない。価値の問題を扱うことができるのは「本質学」の方法が必要だ、その理由は、意外にもフッサール・ニーチェ・ハイデガー・ウィトゲンシュタインらの極めて本質的な原理が、現在の哲学者にほとんど理解されていないと竹田氏は嘆く。最大の理由は、普遍的な認識などありえないという相対主義哲学の勢いが強く、民主主義と資本主義は表裏一体で切り離せない、よって矛盾の大きい資本主義をやめればいい。すなわち「大きな物語は終わった」というイメージの思考に流されたというわけだ。
…私自身は、フーコーやドゥルーズ、デリダなどのポストモダン思想は実に興味深いと考えているし、倫理の授業でも必ず講じる。上記の「物語」という表現は、まさにフーコーのもの。ドゥルーズの社会のコード論も納得できるし、デリダの差延も脱構築も納得できる。ただ、竹田・苫野両氏の言う「本質学」ではなく、相対主義であるのは指摘通りであると、私も思う。
本質学としての哲学の根本、リレーの第1走者は、プラトンだと、竹田氏は言う。苫野氏は、この言を受けて、次のように述べる。プラトンは、イデアのイデアは「善のイデア」だと言った。「真のイデア」ではない。人は確かに真善美を求めるが、圧倒的に善を求める。ここで言われる善は、必ずしも道徳的な正しさではなく、ソクラテスの言っていた「よく生きる」で、人生をよりよく生きたいと誰もが思っている、という善への希求を根底に持ちつつ世界を見、生きてるのだと。
…このプラトンの善のイデアが第1走者であるという趣旨には、少し驚いた。私の倫理の授業では、「よく生きる」という人類の教師・ソクラテスの原理は、四元徳として展開している。イデア論は、神秘的(目に見えない)なアルケーとして、理解してきた。ピタゴラスからプラトンのイデア、そしてアリストテレスの形相へと繋がるという一般論に従ってきたからである。今更ながら驚きをかくせない。
…昔々の話になるが、母校での教育実習の時、指導教員をしていただいたO先生(哲学科出身でハイデガーの徒である。)から、(採用試験に合格するなど一切思われていないので)翌年非常勤講師として呼ぶから、一緒にギリシア哲学を勉強しようと言われていたのだが、青天の霹靂で採用が決まり実現することはなかった。ギリシア語を学びながら本格的にやると言われていたので、言語が苦手な私はホッとしたのだが、今から思うと勿体ない話だったような気もする。
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