2025年8月13日水曜日

市民社会の原理のリレー

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「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第4回目。竹田青嗣氏の近代哲学の意義についての考え方は、実に示唆に富んでいる。

中世のキリスト教神学では、カトリックとプロテスタントの分裂が起こると、「物語」の対立故に解決の道はどこにもなく、激しい宗教戦争(画像は三十年戦争)になった。そこで近代哲学が新しい世界説明を出すことでこの深刻な対立を克服した。

宗教的教義の対立ではどちらが正しいのかという答えは決して出ない。この対立を超えて多様な人間が共存できる唯一の原理は、それぞれが互いに相手の信仰を承認し合う「相互承認」に基づく「市民社会」だけである。信仰は人間の内的な属性の1つになり、市民として互いに認め合うという市民社会のの原理は、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルらによってリレーされ鍛え上げられていった。これが現在の民主主義社会の根本設計図である、といえる。

…このロックに始まりヘーゲルに至るリレーという発想は、実に興味深い。私の倫理の授業では、社会とのコンフリクト(社会について考えた哲学)の系譜になる。詳細は後日の書評にゆずるが、最終到達点はヘーゲルの「人倫」にくると想像できる。

また近代哲学は、キリスト教という巨大な世界像が崩壊した後、完全に新しい仕方で人間の存在理由やその価値と意味について考え直した。人間の自己理解という点でも大きな仕事を果たしている。

…ここでは、認識論とニーチェが重要かと思う。こっちは、私の倫理の授業では、自己自身とのコンフリクト(生き方について考えた哲学)の系譜になる。ちなみに、もうひとつ、ギリシアのミレトス学派などの自然とのコンフリクトがあるのだが、こちらは事実学である自然科学に発展解消したといえる。

ところが20世紀に入って、哲学の根本方法、物語ではなく普遍的な仕方で人間と社会を考えるという方法が忘れ去られてしまった。近代市民社会の自由を開放した社会原理は、その後の国民国家どうしの闘争状態の結果、植民地争奪戦争を経て、世界戦争というカタストロフィー(破局点)にまで行き着いた。これを強く批判したのがマルクス主義とポストモダン思想と言える。

…これは、後に竹田氏も記しているように、両者とも相対主義的なスタンスが強く、普遍性を求める近代哲学のアプローチの否定になっている。ただ、その魅力と衝撃は大きすぎたと私も思う。

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