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まず、哲学の考え方の2つの本質について。哲学は、まず「原理」の学であること。いろんな問題について、誰が考えてもそう答えるしかない、という答えを探す思考であり、その答えを「原理」と言う。この「原理」は絶えず人々の検証に開かれている。
…西洋哲学におけるこの「原理」の学の好例は、デカルト(画像参照)の第1証明から第3証明かなと思う。第1証明の方法的懐疑・「我思う、ゆえに我あり」で思惟する自我の存在は、誰が考えても納得せざるを得ない。第2証明の神の存在証明は、かなり無理のある論理であるが、論理的破綻は見られない。ただし、キリスト教的伝統のない日本の高校の倫理の授業で語ると、なかなか理解しにくいところがある。第3証明に至っては、神の存在証明を受けての、物体の存在証明であるが、「神は欺瞞者ではないので、理性(思惟する自我)が明晰判明に理解するところは真である。」といわれても、同様に神=全知全能の創造者という前提が理解されていないので、これまた生徒に理解してもらうには苦労する。もちろん論理的破綻はない。(笑)
哲学のもう一つの本質は、「原理のリレー」として成立することである。
…私が倫理の授業で使う「西洋哲学の木」も、この原理のリレーを重視してきた。デカルトの話を続けると、スピノザが汎神論という原理を提示してくる。このような哲学者のリレーが西洋哲学の木を構成しているのである。
竹田青嗣氏は、この2つの哲学の考え方の原則が、20世紀に入ってから、マルクス主義やポストモダン思想によって、殆ど消えてしまった、と嘆くのである。…つづく。
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