まずは、ソフィストのゴルギアスの論証。①存在はない。誰も存在を証明できないから。②仮に存在があるとしても、誰も正しく認識できない。③仮に認識があるとしても、言語で表現することはできない。竹田氏がゴルギアス・テーゼと呼ぶこの論証は正しい認識は成立する可能性がないということである。この相対主義・懐疑論は、以後ずっと哲学につきまとい、普遍的な認識を求めるプラトンやアリストテレス、デカルト、カントやヘーゲルと言ったビッグネームの哲学者たちを苦しめ、現代哲学まで継続している。
竹田氏は、簡潔にその思考のリレーを記している。カントは、先天的認識形式を提示したが、同時に神の全知でなければ物自体をの世界を正しく(=あるがままに)認識できないとし、ゴルギアス・テーゼを半分だけ認めた。ヘーゲルは、「概念の連動」(時間の経験の中で認識は変化していくという弁証法の要諦:幼児、子供、大人と成長するに従って、対象は多くの概念の束として認識されていく)を提示したが、最終的にゴルギアス・テーゼの構図を破壊できず、絶対精神=世界という認識論で終わっている。
ニーチェの認識論は、革命的である。それまでの絶対の前提だった「主観と客観の一致」(=存在と認識の一致)を打ち壊した。当然前述のカントの神の全知を否定したので、真理(絶対的な認識)も存在しない。それどころか認識は「力への意思」、すなわち生き物の「生の力」が世界のありようを分節する、と説く。
いろんな生き物が自分の身体性に応じて世界のありようを分節している。ダニは、光覚と温覚、嗅覚という3つの感覚しかないそうで、ダニの身体性(感覚と欲望)にあわせて世界を認識しているという。このニーチェの認識論は、相対主義の後ろ盾のように解釈されているが、竹田氏はこれを一蹴する。ものごとは様々な観点の取り方で様々に変化すると言った場合、暗に世界は一つを前提にしているからである。ニーチェのこの画期的な認識論の転換が、フッサールの現象学に繋がっていく。
…ところで、この内容の最初に、次のような文章が出てくる。「多くの若者は、ほぼ例外なく、自分がたまたまはじめに出会った世界思想に強く引かれて、それをどこまでも信じ続ける傾向がある。」思わす笑みをこぼしてしまった。私にとっては、高校時代に呼んだ梅原猛の「哲学の復興」がその最初に出会った世界思想にあたる。この新書には、デカルトの二元論批判と、西洋哲学に対する仏教思想の優位が説かれていたからである。前回、円融の三諦という実体論について、わざわざエントリーしたのは、こういう私の思想遍歴に由来していると言えようか。
0 件のコメント:
コメントを投稿