2025年8月19日火曜日

続・仏教哲学は所詮 物語か?

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/okyou-houbenpon.html
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第10 回目。昨日の書評で仏教哲学については、本書ではほとんど顧みられなかった。まあ、主題ではないので当然であるが…。

…たしかに法華経は宗教の経典であり、本書で言われる「物語」であるということは否定しない。だが、本書が「物語」だ、と切り捨てた一神教とは趣が違う。初期仏教で最重要の教義は「縁起」(えんき:全てのものには原因と結果がある。)ということであり、一神教では、こういう原因と結果はすべて神に帰していることと比較し、その相違を強く主張しておきたい。

…昨日のエントリーの最後に、円融の三諦のことを私は記した。これは、法華経方便品第二(画像参照)に記されている諸法実相から導かれた「実体論」であると私は考えている。円融の三諦とは、空仮中の三諦とも言われる。高校生にもわかるように述べれば、空諦とは諸法実相の如是性から導かれる、精神(ギリシア哲学的には魂)は、有るというのでもなく無い、というのでもない概念である「空」であるということ。固定的な実体を持たないともいえる。仮諦は、同じく如是相から導かれる、肉体や物体が時間的(諸行無常)・空間的(諸法無我)に変化するので、仮に生じ存在し、また消滅していくということ。中諦とは、精神と肉体が合わさり、どちらにもとらわれず存在していることだ、といえる。

…西洋哲学では、有と無のみの存在論である。また変化する現実と実体(本当に存在するもの)については、ギリシア哲学におけるヘラクレイトスとパルメニデスの問い以来、変化と実体の関係は問題にされてきたが最終的にデモクリトスのアトムに帰結する。結局のところ、有と無の実体論であるわけだ。私は円融の三諦の実体論のほうが、はるかに(一神教の原理主義者を除いて)万人の理解を得れると思う。

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