2025年8月21日木曜日

現象学の「認識論の解明」

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「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第12 回目。いよいよフッサール(画像参照)の現象学について。

自然科学の認識は誰にとっても同じ「事実」の認識であるが、人間や社会の認識は、多様な価値観が入ってくるので、事実の認識とは言えず「本質」の認識である。「本質」の認識の領域では、存在を正しく認識する(客観から主観へ)という順序で考えるのは無効で、経験から確信が生じる(主観→客観の確信)というのが現象学の図式である。

その好例として次のような記述があった。かつてのヨーロッパ人は皆キリスト教の世界観を信じていた故に「神が世界を創ったので私は神が存在すると考える。」という独断論が蔓延っていた。「私は生まれたときから親や大人たちに神はいると言われ続けてきたので、神は存在すると考える(確信している)。」というのが正しい、と竹田氏は述べる。

…フッサールの現象学といえば、対象がリンゴの場合の図式が多いのだが、私にはこの例が最も突き刺さった。(万が一、カットリックの学校である学院の授業で現象学を説くことがあっても、この例は絶対使えないが…。笑)

本質領域での認識問題については、全知(真実=真理)が存在するという発想をきっぱりやめることとが、現象学の「認識論の解明」である。「社会とはなにか」という問いは「よい社会とは何か」という問いを含む。よって必ず価値の多様さによって様々な考え方(信念・確信)が出てくる。哲人政治(プラトン)、絶対平等(マルクス主義)、絶対救済(仏教)、道徳的完成の世界(カント)等々。どれかが最も正しいというのではなく、考えの違いを超えて誰もがOKと思える「良い社会」についての共通の合意を取り出せる可能性が、現象学的スタンスにはある。

社会はルールの束によるゲームであり、多様な価値観(人間の自由)が許容される社会は相互承認にもとづく「自由な市民社会」であることは誰もが認めざるを得ない社会的認識である、ということで、現象学のフィールドからプラトンからルソー、ヘーゲルに至るリレーを再認識するカタチで、本書の社会哲学的な内容は一応完結するのだった。

…明日から、学院での授業が再スタートする。実に有意義な本書の書評はここで小休止したい。

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