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佛教大学歴史学部編の『歴史学への招待』(世界思想社)から書評をもうひとつエントリーしたい。井上浩一氏の「憶える歴史から考える歴史へ アテナイの民主政と陶片追放」という項である。氏の一回生の「西洋史概論」で古代ギリシア史の講義の実践記録である。
ペイシストラトスの僭主政治の後、クレイステネスが民主政を確立させる。高校の世界史では、直接民主政の細かなところまではやらない。この項では、さすが大学での講義という感じで、実に興味深かった。
全ての国民が参加する「民会」と、執行機関として少数で構成される、それまで貴族が牙城としていた「評議会」をクレイステネスは、「五百人評議会」に改編した。アテネ市民の中から抽選で毎年500名を選んだ。なるべく多くの人が就任できるように、生涯で2度という制限をつけた。500名の評議員は、50名ずつ35~36日間の任期で当番評議員を構成する。この当番評議員は、今日の内閣にあたるもので、日常的な政務のほか、評議会や民会の招集権限をもっていた。市民の中から50人が順番に各々1ヶ月あまり大臣を務めたわけである。当番評議員から、抽選で1名が評議会議長(内閣総理大臣であり、民会の議長でもある)となったが、任期はたった1日で二度と就任することは許されなかった。
氏は、18歳以上のアテネ市民を推定3万人として、評議員になれるのは30歳以上の市民とした場合、評議会議長になれる確率を考えるのも面白い、としている。これらの民主政は、僭主が再び現れないようにとの想いから出たものだが、それでもなお懸念が残り、陶片追放というシステムである。民会で行うべきという意見が多数を占めた場合に行われ、投票数が6000にたしたら、あるいは6000以上の人物のうち最多得票となったらの二説あるのだが、財産や市民権を失うことなく、10年間の国外追放となったという。
ペルシア戦争・マラトンの戦いの少し後、陶片追放が初めて機能した。かつての僭主ペイシストラトスの親族であった。しかし影の部分もあった。政敵を打倒するために組織的な投票が行われたり、流言飛語や風評で有能な政治家・将軍が追放の対象となった。マラトンの戦いで活躍したアリスティデス、サラミスの海戦でペルシア艦隊を撃破したテミストクレスも陶片追放となった。有名な政治家・ペリクレスは、若い頃、この陶片追放=民衆を恐れていたと伝えられる。彼の晩年にアテネは、スパルタとのペロポネソス戦争に突入し、陶片追放も戦争中に最後を迎える。この約100続いた陶片追放について、学生に是か否かを問うという。実際の是非の意見も付記されていたが、なかなかよく書けている。
…実に面白い。自分の意見を形成するとともに、他者の意見をよく聞いてさらに考える。こういう歴史学習は、いいなと思うのである。受験の世界史や日本史では味わえない歴史の醍醐味を得ることになると思う。



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