2025年11月11日火曜日

桂小五郎から坂本龍馬への書簡

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575896
佛教大学歴史学部編の『歴史学への招待』(世界思想社)という本の青山忠正氏の項に、桂小五郎(木戸孝允)から坂本龍馬宛の書簡の話が出てくる。当時、桂は薩摩側の求め(黒田清隆を薩摩は派遣した。)に応じて、京都の薩摩藩邸で西郷と小松帯刀との直接会談をし、大坂の薩摩藩邸に下って、伏見にいた坂本に六か条の書簡を書いた。(上記画像参照)

この書簡には、「尽力」「周旋尽力」「冤罪も御免」などの語彙が何度も出てくるのだが、当時の大前提を理解していないと何のことか全くわからない。大前提とは、禁門の変以来、毛利家当主父子が、官位停止の措置を受けていたことである。当主・慶親(よしちか)は、天子から「従四位上参議左近衛権中将」、十二代将軍家慶から「松平大膳大夫」の称号を受けていたし、世子・定広は「従四位下左近衛権少将・松平長門守」を受けていたのだが、それらが停止・剥奪されてしまったのである。これは、大名の公式資格の剥奪にあたる。領外の公式の場に出席することも、はたまた家臣の末に至るまで領外にでることもできない状況であった。桂の手紙には、このような大前提を文字にすることさえ忍びないことであったし、明治になって、長州は「朝敵」となった前科を隠し、周囲もまたあからさまに口にすることを憚った。時代が下がるにつれますますわからなくなり、専門研究者でさえ理解されなくなっていったとのこと。

この大前提を薩摩に覆して欲しい、さらには、この周旋努力を遮っている「橋会桑」(一橋慶喜:禁裏守衛総督・会津藩主松平容保:京都守護職・桑津藩主松平定敬:京都所司代)といった、将軍家茂や老中小笠原長行より孝明天皇に近い彼らが邪魔をするようなら「決戦」(薩長の武力行使)も辞さない合意というのが、書簡の内容で、坂本に、長州と薩摩の了解事項は、これでいいだろうかと問い、必要なら朱書きを入れてくれということだった。桂としては、薩摩の口約束を信用するしかなかったのだが、坂本を通じて再確認したかったのだろう。

時は、第二次長州征伐前夜である。坂本は、朱書きを入れずに、この桂の書簡を西郷や小松に見せ、了解を得たと桂に伝えた、と推察される。歴史学から見た薩長同盟の姿がここにあるわけだ。

…たしかに、この長州毛利家の官位停止の話は、初めて知った。幕末史の関係書籍はかなり読んだつもりだったが、この件は初めてで、大いに勉強になった。

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