2025年10月22日水曜日

誤読と暴走の日本思想 5 西田

https://fishaqua.gozaru.jp/kyoto/travel/tetsugaku/text.htm
久しぶりに『誤読と暴走の日本思想』(鈴木隆美著)の書評の続きである。西田幾多郎の哲学についてエントリー。西田幾多郎の哲学は難解で、かの小林秀雄は、『学者と官僚』で、西田哲学を「日本語で書かれておらず、もちろん外国語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステム」と述べており、著者も正鵠を得ていると評している。(笑)

西田幾多郎は、留学経験がない。ドイツ語やフランス語、英語の文献と、明治以来の日本的哲学用語を駆使して、自らの思想を打ち立てた人故に、欧米のキリスト教的な伝統を理解していないこと、欧米の知識人が通常マスターしていたラテン語を学んでいないことにも触れている。そもそも「有」(=神の存在)から始まっている西洋哲学を、「無」(仏教の縁起・空なる実体)に置き換えている時点で、見事な誤読であり、日本的文化圏・言語の中で、真面目に創造的な誤読をした哲学者であると著者は何度も称えている。

西田哲学の代表的概念である(唯一の実在としての)「純粋経験」は、ジェームズやカント、ヘーゲルやベルグソンの思想を、日本の禅(西田は臨済禅を会得していた。)と接ぎ木しつつ独自の論理を作り上げたわけだが、私は倫理の授業では、純粋経験=仏性の湧現(仏性:一切衆生に備わる仏になる因)として教えている。本書では、心配や妄想などから離れた、無の境地、自分と世界の境界が取り払われてしまい、世界と一体になるような不思議な状態が純粋経験である、と記されている。

…具体例としては、私のブルキナファソでの体験を話すことにしている。サヘル地域(サハラ砂漠南限)からの帰路、長く続く坂道を、自転車に重い荷物を積んだ現地の人々の列(200mくらい続いていた)が、クーラー付きの4WDに乗っている私の目に飛び込んできた。アフリカの厳しい現実に私は滂沱した。あの時、彼らと一瞬にして同苦したのだった。ガイドのオマーンが、「(ブルキナべにとって)当たり前のことだ。君が泣くことはない。私も同じように自転車を漕いでいた。」と言ってくれたのだが…。

…(純粋経験の説明として)「神がかった集中力と超人的な力を発揮すること」もこの本に記述されている。先日の大谷投手の10三振・無失点の投球や、3HRも、この純粋経験に近いと思うのだ。打撃低迷していた大谷選手だったが、一気に覚醒した姿…。

前述のジェームズは、徹底的な経験論の立場からヨーロッパ的な観念論・イデア論・形而上学から距離を取って、意識の流れを理論化したプラグマティズムの哲学者。もちろん彼もキリスト教の伝統にどっぷり浸かっているのだが、この用語法を日本の土壌に移植した。
このジェームズと全く正反対にあるカント・ヘーゲルのドイツ観念論、特にヘーゲルの弁証法的な用語を使い、自身の「無」のロジックになし崩し的に統合していくのである。

このような専門的な指摘は、高校倫理の資料集にもない。当然高校生の理解できる範囲を超えていると私も思う。西田哲学については、さらに後日エントリーを続けたい。ちなみに、今日の画像は、京都・哲学の道にある西田幾多郎の歌碑である。

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