2025年10月12日日曜日

誤読と暴走の日本思想 4 兆民

本日のエントリーは、『誤読と暴走の日本思想』(鈴木隆美著)の書評の続きである。西周も福沢諭吉も”変人”なのだが、今日の主人公・中江兆民は”奇人”の方がふさわしいと著者は記している。東洋のルソー・中江兆民も、本家ルソーも『告白』の中で同じような公然猥褻罪のようなことをしているのだが、2人とも当時の権力を真っ向から敵に回し、空気など読まずに新たな時代を作った文化のクリエイターであるとも記している。

土佐出身の兆民は長崎で朱子学と陽明学を学び、江戸で儒教や蘭学、フランス語を学び、幕府のフランス語の通訳となる。24歳から2年半フランスに留学。帰国後はフランス語・文化を教える私学を開き、この時期に『民約論』を世に問うている。明治8年東京外国語学校の校長になるが、徳を育むための漢籍教育をカリキュラム化しようとして文部省と対立、辞職している。この西洋と東洋を統合する視点は、西周や福沢諭吉と同じで、生涯変わらぬ主張の1つであるといえる。その後、自由民権運動の理論的指導者となり、新聞に論説を発表して危険人物とされ、東京から関西に逃げることになる。被差別者のために国会議員(選挙区は、高知ではなく大阪なのを愛媛の博物館で知った。)となるが、立憲自由党の設立に深く関わりながらも、妥協できぬ性格故離脱。実業家に転身するも失敗し喉頭がんを患い、余命1年半と告げられ、『一年有半』『続一年有半』を書き上げ54歳で、激動の人生を閉じている。

兆民は、西周の「哲学」より、「理学」という儒教色が強い訳語を好んだ。道徳面において、日本は西洋に劣らないとし、東洋の知恵と西洋の知見を総合するという意気込みを持っていた。一方で「日本に哲学なし」と、『一年有半』で述べた兆民は、国学や日本的儒学、浄土宗から禅宗までの日本仏教を一刀両断。彼らを古典の解釈者にすぎないとした。また当時のアカデミズムの哲学者を『崑崙呑棗』(崑崙にナツメをなめる:鵜呑みにするという仏教用語)として、西洋哲学を鵜呑みにしている馬鹿者と罵倒してもいる。さらに「カントとデカルトはドイツとフランスが誇る”床の間の掛け物”だ。」と言い、ヨーロッパの文化的産物である哲学は、日本の風土や土壌には存在しない、故に純然たる哲学はないと言えるし、哲学はもっと普遍的なもので日本の文化(儒学・漢学)からも取り出せるというのが理学の兆民の立場だった。

「民権は至理、自由平等は大義」(奎運鳴盛録:けいうんめいせいろく)という有名な兆民の言葉では、この「理・義」という封建的な価値観と民権と自由平等が、無理やり接ぎ木されている。ここには大矛盾がある。フランス革命では、王の首がギロチンで一刀両断されている。自由平等を言う概念は個人主義の土壌なしには存在し得ないものであるからである。

また兆民は、ルソーのリベルテモラル(個人意思のコントロールによる自由:個人それぞれが理性的に、社会にとっての善を分析し、考え抜き、個人の中で自分の本能的欲求をコントロールして、一般規則に自ら従うという自由)を、孟子の「浩然の一気」と訳している。

…このような兆民的接ぎ木的な部分が、自由民権運動の限界であったのだろう。兆民の弟子・アナーキストとなった幸徳秋水の大逆事件との対比も興味深いところだ。

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