2020年5月15日金曜日

続 第二の周恩来はいないのか。

https://twitter.com/FINN_Aqua/status/1253307992562266113
このところ、中国共産党の事を考えている。教師になった頃、中国近代史をだいぶ勉強した。文革から四人組の時代だった。私は右でも左でもないが、国共内戦で共産党が勝利したことは、国民党の腐敗、蒋介石のスタンスから、正義は中国共産党にありと考えてきた。(台湾は李登輝時代から蒋介石の亡霊は払拭されたと考えている。)中国共産党は、1949年の建国以来、「紅」(社会主義化)と専(資本主義的な修正主義化)を繰り返してきた。毛沢東の「紅」は大躍進や文革など、かなり失敗してきた。それをカバーしてきたのが責任感と人徳のある周恩来である。鄧小平は「専」の代表的人物で、2度も失脚しているが、毛、周亡き後、文革後の中国の指導者になった。周恩来と共にフランス留学していた鄧小平は、超現実主義者で「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」というコトバで有名だ。彼が実権を握ってからは、もっぱら「専」になる。

ところで、今日Facebookで紹介した本は「武器としての社会類型」である。私は世界史の授業の武器としてヨーロッパの「上:自由な個人 下:不自由な共同体」を使ってきた。このネタ本である。ここに、中国の社会類型が出てくる。ヨーロッパの全く逆の「上:不自由な共同体 下:自由な個人」なのである。これは、科挙という伝統があり、実力次第で権力を握る官僚が、不自由(地縁血縁で下級役人を任命するよう縛られ、また経済的にも援助を求められる。)で、しかも国家運営の責任を背負わされるという視点である。

私は、中国共産党の長征や国共内戦、建国初期などには、これまでの王朝や政府とは違うプロレタリア独裁というカタチだが、同様の社会類型であったように思う。しかし、鄧小平下の胡耀邦、趙紫陽の後に、「上:自由な個人 下:自由な個人」になったような気がしてならない。
鄧小平は、第二次天安門事件の時は「紅」化し、民主化を阻み、意見が違った胡耀邦、趙紫陽を失脚させた。このことの評価は実に難しいと私は思っている。その鄧小平の死後、つまり江沢民ー胡耀邦ー習近平の中国の高度経済成長時代に、社会類型が変化したことは間違いない。共産党が企業に入り込み、国家が資本主義経済化を推し進めた時代である。共産党の権力闘争は、イデオロギーではなく、幹部間の利権になったようだ。中南海は、周恩来がいた頃の国家運営の責任からくる不自由さも失せ、チームで国家運営する共同体性も失われているのではないだろうか。

私は中国ウォッチャーではないので、ここまでしか考察できない。これ以上の考察をしようとすれば、膨大な資料を調べる必要があるだろうと思う。
ただ、今中国が置かれている状況は、本来の「上:不自由な共同体 下:自由な個人」から「上:全てが自由な個人 下:ちょっと自由な個人」という、上が何をしても許される独裁状態にある事が根本原因だといえる。

フツーの民主主義国家からすれば理解不能なニュースが流れている。今回のパンデミクスの情報操作。マスクのプレゼントで感謝状を強要しようとするプロパガンダ。世界中の医療品を買い占めていたような報道もある。また武漢の調査を要求したオーストラリアへの牛肉禁輸の脅しなど、下(中国の国民)が困るだろうことを平気で行おうとするあたり、臨界点に達しているように思うのは私だけではあるまい。
…第二の周恩来はいないのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿